【123】「三国干渉」時の国際関係を誤解している。
「…下関条約が結ばれた六日後、ロシアとフランスとドイツが、日本に対して『遼東半島の返還』を要求した。」
「…満州の利権を狙っていたロシアが、フランスとドイツに働きかけて行なったものだった。フランスとドイツはこの干渉に参加することによって清に恩を売り、その見返りを得ようという目論見があった。互いがロシアと接近するのを拒むために、敢えて手を結んだという事情もあった。」(P308)
1890年代のヨーロッパの国際関係の情勢に基づかない説明が含まれています。
ドイツは、1890年にビスマルクが退任し、皇帝ヴィルヘルム2世による親政が始まっていました。
フランスを孤立化して、ドイツの安全保障を確立するための同盟関係を作っていたビスマルク体制は大きく転換されます。
ヴィルヘルム2世は、イギリスやフランスのように海外に植民地を持つことを考え、「世界政策」に大きく外交政策の転換をおこなおうとする矢先でした。
ビスマルクはロシアとのつながりを重視していましたが、ヴィルヘルム2世は、ロシアがバルカン半島をめぐって対立していたオーストリアとの関係を重視します。
このため、ロシアはフランスと接近し、1891年に露仏同盟を結び、1894年にはその関係をさらに強化していたのです。
ですから、フランスはアジアにおいてもロシアと歩調を合わせるのは当然で、「敢えて手を」結んだわけではありません。同盟に基づいた行動です。
ドイツは、「世界政策」に舵をきっており、首相ホーエンローエは、ロシアの注意と進出をバルカンから極東にふりむける好機ととらえ、「協力」をすることを企図しました。また、それまで出遅れていた中国市場への参入のチャンスでもあったのでロシアの呼びかけに応えたのです。
陸奥宗光は、彼の外交手記『蹇蹇録』を読む限り、ロシアによる干渉を予見していました。しかし、アメリカとイギリスが日本に好意的であったこと、それから当初ドイツが条約に問題なしと通知していたことから、干渉を退けられると考えていたのです。ところが、イギリスとアメリカは中立を宣言してしまい、ドイツがロシア側についたことで、要求をのまなくてはならなくなりました。
「しかし清から得た二億テールという莫大な賠償金(当時の国家予算の四倍)と遼東半島の還付金三千万テールは日本の経済を繁栄させた。」(P309)
「そのため多くの国民が『戦争は金になる』という誤った意識を持った。この意識が後に日本を危険な方向に導くもととなる。」
日清戦争の結果、「戦争は金になる」という誤った意識を国民は持ったのでしょうか。
そしてこの意識が日本を危険な方向に導くもととなったのでしょうか。
「独特な説明」としか言いようがありません。
三国干渉を甘んじて受け入れなくてはならなくなった憤慨の声が高まり、「臥薪嘗胆」の合言葉が叫ばれ、政府もそうした気運のなかで軍備拡張と国力の充実をめざし、軍備拡張と重工業分野拡張のために賠償金の多くを使います。
そもそも日清戦争のために約2億円を費やしています。ですから賠償金(遼東半島返還にともなう追加賠償金を含む)3億6000万円は巨額ですが、さきのマイナス分の補填にも使用されています。
動員された兵力は10万人で、日本側の死者は1万7000人…
ところが実は、死者の七割は戦地での病死で、変な話ですが、「戦争による犠牲」、という意識が後の日露戦争に比べて桁外れに希薄でした。
「この意識が日本を危険な方向に導くもととなる」と、あたかも国民自身に後の戦争の責任の一端があるかのような示唆です。
後の日露戦争は、日清戦争とは異なり、多くの国民が増税に耐えて戦争を支え、110万人を動員して20万人もの戦死者を出したのにもかかわらず、日本の戦況について真相を知らされないままの戦争だった、ということを忘れてはいけません。