『日本国紀』読書ノート(128) | こはにわ歴史堂のブログ

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128】日露戦争は圧倒的に日本が不利な戦いではなかった。

 

「ロシア皇帝ニコライ二世は日本人のことを『マカーキ』()と呼んで侮っていた。」(P314)

 

これ、いまだに説明されていることなんですね…

司馬遼太郎の『坂の上の雲』で大津事件のことが説明され、そこで皇太子ニコライのイメージが定着してしまい、以来、ずっと言われ続けていることです。

司馬遼太郎は、よく、これ、やっちゃうんです。

『世に棲む日々』などでも高杉晋作が御成橋を突破した話や白昼堂々関所破りした話や、京都で将軍家茂に「よ!征夷大将軍!」と掛け声をかけた話… あげくに「くやしい思いをした」と江戸に手紙を書いた旗本もいた、と、までリアルなエピソードを添えてしまって…

これ、すべて架空の話なんです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11875631519.html

 

『坂の上の雲』の話でのニコライやロシア側の軍の日本を「侮る」エピソードはいずれも根拠不明なものが多く、いくつかは現在では否定されています。公文書にまで「マカーキ」と記されている、とまで説明されているのですが、皮肉ではなく、ほんとにそんな公文書があればぜひ、見てみたいです。

ニコライ2世は、筆まめな人で、いろんな手紙、日記が残っています。『最後のロシア皇帝ニコライ2世の日記』(保田孝一・講談社学術文庫)は、なかなかおもしろくて、ニコライは現在に生まれていたらツイッター大好きだったかもしれません。

これを読むと、日本が大好きだったことがわかります。

大津事件に対する人々の対応にも感謝していますし、襲撃した「津田三蔵」を憎んではいますが、「どこの国にも狂人はいるものだ」と日本人と犯人を明確にわけています。

長崎はことのほかお気に入りの街で、美しい街並みや日本建築、清潔な道などに感心しています。日本人の嫁をもらうことを真剣になやんでいる様子もうかがえます。

京都は昔の日本の首都であったとして、「モスクワ」と同じ、と書いています。

また、自分を助けてくれた車夫に勲章を授与していますが、「車夫の服装で来るように」とわざわざ命じて名誉礼をとっています。

「猿」と侮るような態度を彼は示していません。

ニコライが、対日強硬策をとるのは1902年以降、強硬派アレクセイエフの提言を採用して以降です。

わたしね、日記読んでみたんですが…

ありました!

 

190428日。

「この夜、日本の水雷艇が旅順に投錨中の我が軍に攻撃を加え損害を与えた。これは宣戦布告無しで行われた。卑怯な猿め、神よ我等を助けたまえ。」

 

これ… たしかに「猿め!」て、お怒りですが、これで日本人のことを猿と呼んでいた、とするのは適切ではないと思います。「幕府のイヌめ!」と言ってるような比喩ですよね…

ニコライ2世が「日本人のことを『マカーキ』()と呼んで侮っていた」というのは現在では俗説です。

 

日本は、当時、ロシアに比して弱小だったのでしょうか…

 

「ロシアに比べ大幅に国力の劣る日本は…」(P314)

「日本とロシアの戦争は、二十世紀に入って初めて行なわれた大国同士の戦いだった…」(P315)

「ロシアの国家歳入約二十億円に対して日本は約二億人五千万円、常備兵力は約三百万人対約二十万人だった。」(P315)

 

と、百田氏は説明されています。

当時の実質GDP(百万ドル)を算出したデータがあります。

(『日露戦争、資金調達の戦い』板谷敏彦・新潮選書)

 

日本 52,020

ロシア154,049

アメリカ312,489

イギリス184,6861

 

やはりロシアは日本の三倍の経済力がある、といえそうですが…

しかし、これでは正確ではありません。あたりまえですが、国の力は、「一人あたりのGDP」を算出しなくてはいけません。すると…

 

日本 1,180

ロシア1,237

アメリカ4,091

イギリス4,492

 

これ、経済的にはほぼ拮抗しているといえます。べつに戦争してはいけない相手の経済力ではありません。

日本の人口は約4400万人、ロシアは12500万人です。

問題は、これを背景とする軍事力で、日露戦争開戦時のロシアの常備兵力は約200万人で、それに対して日本は約20万人でした。これでは話になりません。

ところが…

日露戦争で動員された日本の陸軍兵力は戦地勤務が945000人、内地勤務・軍属をこれにくわえると1243000人です。

1905年の段階で戦地に展開されていた兵力はロシアが788000人、日本が692000人なんです。(『日露戦争研究の新視点』日露戦争研究会編・成文社)

 

実は、過去、日露戦争のロシアの戦力・経済力が「過大に」評価されていたようなのです。

これ、ポーツマス条約で講和が不利になる(あるいはなった)ことをふまえて、「日本はすごい相手と戦った」「負けて当然の戦いだった」「それなのに勝ったんだよ」という世論や評価をつくり出すために後に説明されるようになった言説です。

 

「当時、日露戦争は日本にとって絶望的と見られていた戦争だったのだ。」(P315)

 

というイメージをまさに作り出したかったわけです。

ですから、日露戦争開戦前の、ロシアの軍人の話なども、いくつか残っているのですが、どうも出典不明の、何の記録によるかあいまいな話が多いのです。

 

「ロシア陸軍の最高司令官アレクセイ・クロパトキンはこう嘯いた。『日本兵三人に一人で十分。今度の戦争は単に軍事的な散歩にすぎない』。また日本に四年間駐在していた陸軍武官はこう言っている。『日本軍がどれほど頑張ろうと、ヨーロッパの一番弱い国と勝負するのに百年以上かかる』。」(P315)

 

これもよくネットでみられる話なのですが…

1903年にクロパトキンは来日して、日本の視察をしています。

『世界史のなかの満州帝国』(宮脇淳子・PHP新書)では「陸軍戸山学校を視察」した時のもの、「百年以上かかる」の話は駐日陸軍武官パノフスキー陸軍大佐の話、として紹介されていますが、『児玉源太郎・日露戦争における陸軍の頭脳』(神川武利・PHP新書)では、クロパトキンが言った言葉は「日本兵一人半に、ロシア兵は一人で間に合う。」となっていて、「百年かかるだろう」と言った人物は「ワンノフスキー」という人物と紹介されています。

人物も異なりますし、「三人に一人」「一人半に一人」など表現も異なります。

 

正直、この話、わたしは懐疑的なんです。

というのも、前に、1902年以降、ロシア政府内でも対日強硬派と対日融和派に分かれていた、という話をさせていただきました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12441383804.html

 

アレクセイエフが強硬派、そしてクロパトキンは融和派だったんです。

クロパトキンは、1903年に来日して日本の実情を視察し、日本の軍事力を高く評価しています。

そして帰国するや、なんと日本との戦いを回避する行動に出ました。日本には強気な発言をしてみせた可能性はありますが、来日中クロパトキンを接待した村田惇少将と雑談していてその中でも戦う意思がない話をしていますし、陸軍大臣寺内正毅にも「日本と開戦するは決してのぞましきことにあらず」と説明しています。(『日露戦争史』横手慎二・中公新書)

 

「これだけばかにされていたのに勝ったのだ」ということを強調するためのネタにクロパトキンの逸話が利用されてきたような気がします。

実際、『坂の上の雲』やその他の話でも、「クロパトキン愚将」説はなかなか消えていません。

あいかわらず、「虚像と誇張の日露戦争」が再生産されています。