【119】伊藤博文にとって天津条約には別の重要な意味があった。
「この政変(甲申政変)で、日本と清の間で軍事的緊張が高まったものの、明治十八年(一八八五)、両国が朝鮮から兵を引き揚げることを約束する天津条約を交わした。この条約で重要なのは『将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない』という条項だった。」(P397)
天津条約の日本側の全権は伊藤博文、清国側の全権は李鴻章でした。
双方、実力者同士の会見です。
「両国が朝鮮から兵を引き揚げる」としていますが、これは実は「伊藤外交の勝利」でした。日本の駐留兵は、公使館の警備兵レベル。それに対して清は首都を完全制圧している全軍の撤退ですから、事実上清軍の撤退を実現させたものでした。
伊藤はさらに、永久撤兵を主張したのですが、これは李鴻章が折れず、「清は朝鮮の宗主国であるから朝鮮の出兵要請があれば兵を出す。」と譲りませんでした。
そこで伊藤は、出兵の際は「相互通知を必要と定める。」ということを認めさせることで合意に漕ぎ着けました。
普通はこれで、終わり、のはずですが…
「この条約で重要なのは『将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない』という条項だった。」
実は、伊藤にとって重要なのは、これらではなかったのです。
すでに清国に駐在している公使の榎本武揚から、「撤兵と出兵相互通知は清側は認める気配がある」という宮廷側の「情報」を得ていて(榎本の情報分析力が評価できるところです)、撤兵も出兵相互通知も巧みに思惑通りに進められたのですが、国内に向けて「甲申事変」の不正確な情報提供をしていたために、「清国を討つべし」「清側の謝罪を要求せよ」と、すっかり国内世論が沸騰してしまい、このままでは引き下がれない状況に置かれてしまっていました。
「甲申事変で混乱する首都で多くの在留日本人が殺害された。」
「これに関係した軍の指揮官を処罰せよ。」
という伊藤の要求に対して、李鴻章は「これらは混乱時の『瑣末事』にすぎない。どうでもよいことではないか。」と、そもそもクーデターに日本が関与していたことも仄めかして伊藤が引き下がるのを待ちました。
ところが伊藤はまったく引き下がりません。李鴻章は「朝鮮の兵がやったことで清国のあずかり知らないことである。」とまで言い始め、態度を硬化させました。
なおも伊藤の交渉は続き、ついに李鴻章は「内部で再調査する」ことを約束し、事態が判明すれば責任者を処罰するという「約束」をすることになりました。
(これら一連の史料に基づくやりとりの研究は『韓国併合』海野福寿・岩波新書に詳しいです。)
清がこの交渉に折れたのは、清がまだフランスとベトナムをめぐって戦争中であったこと、これを機会にフランスが日本と接近する可能性があることをイギリス(李鴻章と良好な関係にあった)が李鴻章に示唆したことが背景にありました(『文明国をめざして』牧原憲夫「全集日本の歴史13」小学館)。
政府が政府の都合がよいように世論を巧く誘導しようと情報操作する、
政府が思っている以上に世論が過剰に反応してしまう、
その結果、政府が想定していた以上の成果を出さなくてはならなくなる…
今後の日本が、何度も経験し失敗する「未来」が「天津条約」締結交渉にすでに現れていました。