『日本国紀』読書ノート(118) | こはにわ歴史堂のブログ

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118】日清戦争前の朝鮮問題の説明が一面的である。

 

「アジアで唯一、近代国家の仲間入りを果たした日本だったが、江戸幕府が安政時代に結んだ不平等条約の頸木から抜け出ることは容易ではなかった。これが国際条約の重みである。」(P304)

 

と説明されていますが、前にもお話ししましたように、これは誤解です。

幕府が結んだ安政の五か国条約は、たとえば関税に関しては20%で、当時の国際水準では普通のものです。

治外法権に関しても、むしろ諸外国は、日本人(とくに攘夷と称して暴れる狼藉者)を自国の法律で裁けないことを不満に思っていました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12435563481.html

 

日本が経済的に打撃を受けることになる(関税率5%)「改税約書」は、長州藩の無謀な下関戦争のしりぬぐいのために認めさせられたものです。

それから、これもお話ししたように、明治新政府になってから北ドイツ連邦とむすんだ沿岸貿易の特権、さらにはオーストリア=ハンガリー帝国と結んだ、日墺修好通商条約で、不平等条約の「不平等さ」がいっそう「悪化」したのです。

条約改正の「指標」はこの新政府になってからの「日墺修好通商条約」なのです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12439166039.html

 

さて、日清戦争にいたる国際関係なのですが…

 

「…しかし、脅威は去ったわけではなかった。『遅れてきた列強ロシア』が、アジアで南下政策をとり、満州から朝鮮半島に触手を伸ばしてきたからだ。もしロシアがその一帯を押さえれば、日本の安全は著しく脅かされることになる。」(P300)

 

このころ、日本は東アジアに「触手を伸ばして」いなかったのでしょうか。

70年代には、清との相互に近代的な条約を交わし、征韓論は政府を二分する大きな外交問題になりました。台湾出兵に続く江華島事件、そして日朝修好条規の調印は、それをみたイギリス・フランス・ロシアも朝鮮への利権を求めて進出する呼び水になっています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440007016.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440134517.html

 

日朝修好条規が締結されると、清も朝鮮との関係を改めるように動きました。

朝鮮を「冊封国」とする関係を維持するには、日本のように近代的な国際法に基づく

外交・条約によって、改めて朝鮮を「属国」とするために積極的に動き始めたのです。

これをうけて、日本もまた朝鮮を自国の影響下におこうと動き、これが日清間の対立を深めました。

日清戦争を「自衛のための戦争」と位置づけるのは、かなりの無理があり、むしろ朝鮮をめぐる日清の「対等の」ぶつかりあいです。

そもそも第1次山県有朋内閣は、予算の成立での説明に、帝国議会で国境としての「主権線」防衛だけでなく、朝鮮を含む「利益線」のために軍事増強を提唱しています。

日本は近代化による富国強兵を図り、その結果として欧米に次ぐ帝国主義的行動をとりうる軍事力の増強に力を注ぎ始めていました。

 

「…しかし現実の李氏朝鮮は清の属国であり、国家の体をなしておらず、近代化にはほど遠い存在であった。」(P306)

 

と説明されていますが、江華島事件当時の大院君(国王の父)政権時代は、簡単に言うと攘夷に燃えていたかつての長州藩と同じでした。その意味では「国家の体」をなしていないというのは正しいかもしれませんが、日朝修好条規後の閔妃(国王の后)の政権は、日本の明治維新を見習い、日本から軍事顧問も招き、近代化を進めていました。

 

「改革に反対する保守派が大規模な暴動を起こし、日本公使館を襲って、日本人軍事顧問や公使館員を殺害した。(壬午事変)

「反乱軍を鎮圧した清は、袁世凱を派遣し、事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握させた。これにより朝鮮国内では親日勢力(改革派)が後退し、再び清への従属度合いを強めていく。」

 

と、説明されています。(ちなみに、現在は「壬午軍乱」と表記するようになっています。)

しかし、実際は少し違います。

袁世凱を派遣していますが、清は閔氏政権を復活させています。

その上で、本来の改革を続けようとしたのですが、日本は壬午軍乱に対する賠償金を請求し、さらに軍の駐留を認めさせる済物浦条約を認めさせたのです。

ここから閔氏は日本に不信感をいだくようになり、「再び清への従属度合いを強めていく」ことになったのです。

しかし、一方で、閔氏政権で改革派であった金玉均らのグループは、さらに日本に接近するようになりました。

 

「そんな中、明治十七年(一八八四)に、ベトナムの領有をめぐって清とフランスの間で戦争が起こったため、朝鮮半島に駐留していた清軍の多くが内地に戻った。朝鮮の改革派は清がフランスに敗れたことを好機と見てクーデターを起こすが、清軍に鎮圧された(甲申事変)。」

 

しかし、事実は少し違います。このクーデターは、井上馨外務卿の訓令を受けて漢城に帰任した竹添進一郎公使が金玉均を支援して起こった事件です。

しかし、失敗し、金らは日本に亡命し、竹添公使は仁川まで避難しました。そしてクーデターの関与を否定し、日本公使館への攻撃を不当なものであると抗議します。

井上馨も、クーデターへの関与を秘して、日本人殺害と公使館の焼き打ちを非難して、朝鮮に対して謝罪と賠償金を認めさせる漢城条約を締結することに成功します。

日本国内に対しても、クーデターへの後援をしていたことを伏せて日本人の殺害、公使館焼き打ちのみの情報を提供したため、日本国内の世論は沸騰し、これをもとにマスコミ各社は清を非難する記事を掲載していきました。

福沢諭吉の『時事新報』をはじめ、『東京日日新聞』、自由党機関誌『自由新聞』も、日本政府の不正確な情報提供によって対清強硬論へ誘導されたのです。