【117】憲法作成に関して、聖徳太子以来の日本の政治思想を深く研究していない。
「大政奉還までは、徳川将軍が諸侯の上に君臨し、全国に三百近くあった藩では、農民や町人は、殿様が行う政道に何一つ口を差し挟むことができなかったのだ。」(P301)
と説明されていますが、すでに「享保の改革」の説明のときに百田氏ご自身も「目安箱」の例をあげて説明されていますし、この説明の誤解を以前にさせていただきました。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432231531.html
また、庶民が政道に口を挟んで、幕府がそれを変更する、ということは実はけっこうあります。(『大井川に橋がなかった理由』松村博・創元社)
天保の改革の前の「領知替え」などは領民の反対で実行できませんでした。
「それが、わずか十年で『自分たちも政治に参加させろ』と声を上げるようになったのだ。日本の民権運動と憲政の実現は、この後の世界史にも深く静かに影響していく。」
と説明されています。
まず、世界史に影響を与える前に、「自由民権運動」が世界史の影響を受けたものである、という説明をすべきでした。
文字通り、明治六年に「明六社」がつくられ、西洋思想が広く紹介されるようになり、「天賦人権思想」が取り入れられるようになります。
自由民権運動は、反政府運動としての性格を持ち合わせていましたが、こういった思想の浸透があったからこそ、広範な国民運動になりえました。
また、官有物払下げ事件の影響で、大隈重信が政府をやめた「明治十四年の政変」の説明もないため、大隈重信が「立憲改進党」を設立した背景もわかりません。
P302~P303にかけて「帝国憲法」の説明がされていますが、少し不思議な記述があります。
「政府は憲法作成に際して、ヨーロッパ各国の憲法を研究するとともに、聖徳太子の『十七条憲法』以来の日本の政治思想について深く研究し、立憲君主制と議会制民主主義を謳った憲法を作成した。」(P302)
聖徳太子以来の日本の政治思想について深く研究し、大日本帝国憲法に反映したのでしょうか?
「告文」、いわゆる憲法の前文の言葉に反映されている、と言いたいのかもしれませんが…
皇祖皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク…
「天壌無窮ノ宏謨ニ随ヒ惟神ノ寳祚ヲ承継シ…」という表現は、『日本書紀』からの引用です。
「謹んで皇祖皇宗に言わせていただきます。いつまでもいつまでも続いていく天地のように、いつまでも続く先までの心構えに従い、神の皇子の位を継ぎ、これまでの伝統を維持し続けて、放棄したり別の方法をとったりいたしません…」
読めばわかりますが、告文の他を読み進めても、天皇がご先祖様に誓って、ちゃんと正しい政治をします、と約束しているもので、とくに聖徳太子以来の政治思想が反映されているわけではありません。
そもそもかんじんの条文が、「天皇」「臣民権利義務」「帝国議会」「国務大臣及枢密顧問」「司法」「会計」「補則」の7章構成で、きわめて近代的な内容説明になっています。
大日本帝国憲法の検討過程で、ドイツやベルギー、フランス第二帝政の研究をしていることは史料的にも十分確認できますが、日本の政治思想の研究をしている様子はありません。
「明治二二年(一八八九)二月十一日、『大日本帝国憲法』が公布されたが、これは明治天皇が憲法作成を命じてから実に十三年の歳月をかけて作られたものである。」
と説明されていますが、憲法研究に伊藤博文が赴いたのは1882年で、政府の憲法草案作成作業は、1886年から極秘のうちに進められました。
ドイツ人顧問ロエスレルの助言を得ながら、伊藤博文を中心に井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らが起草にあたりました。
憲法草案は、1886年、ロエスレルとモッセの助言を得た井上毅が作成し、1887年6月に書き上げています。
作成メンバーは限られていて、宿屋を借りて作成したところ、草案原稿を入れた鞄を盗難される、という事件まで起こっています。
後に日本国憲法の制定を百田氏は、わずかな期間でわずかな人数で作成したと批判されていますが、大日本帝国憲法も同様、比較的短期間に、外国人顧問のもと、わずかな人数で作成し、西洋的・近代的な憲法として作成されています。
おそらく、1876年の「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発したときから「十三年の歳月をかけて」と言いたいのかもしれませんが、これは「外国の憲法を研究せよ」という命令で、各国の憲法を研究し、「国憲按」が作成され、大隈重信も意見書をつけましたが、内容は後の大日本帝国憲法とはほど遠く、君主権の制限や議会の権限が強いことから、岩倉具視・伊藤博文の反対にあって採択されることはありませんでした。
こうして明治十四年の政変で、大隈重信が罷免され、伊藤博文を中心に憲法草案作成が仕切り直されることになったのです。
このように、最初に出された案が、政権中枢の意に沿わないからと退けられて、改めて新しくつくられる、というのは大日本帝国憲法も日本国憲法も同様です。
「この憲法では、天皇は『神聖不可侵』とされていたことから、戦前の日本は、教祖を崇める危険なカルト集団であったかのような誤解が流布している。」(P302)
と説明されていますが、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という項目も、実はフランスの憲法(1814年6月発布)に記されたものを参考にしていて、この部分はプロイセン憲法とは異なる部分です(制限選挙規定もフランス1814年憲法を参考にしています)。
この部分をいったいどなたが「教祖を崇める危険なカルト集団」であった証として誤解を流布されているのでしょうか?
「国王の神聖」「皇帝の神聖」というのは、19世紀のヨーロッパ君主制ではありがちな説明ですから、少なくとも諸外国は日本を「カルト集団」などと思うはずがありません。(日本の政治家でそのような指摘をしている方がいるのでしょうか…)
「その統治権は無制限ではなく、天皇もまた、憲法の条文に従うとされていた。」(P302)
という説明はまったく同感です。
大日本帝国憲法は天皇主権で、統治権が無制限であるかのように誤解されがちですが、第四条に明記されているように、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」とされています。
しかし同時に「天皇大権」という権限が明記されていたことも忘れてはなりません。
宣戦布告、講和、条約の締結など議会の制約をまったく受けない、というのは他の立憲君主国にはない際だった特色です。(議会による制限を極力排除すべきと提言したロエスレルの意見が反映されている箇所です。)
「憲法制定と内閣制度の確立により、日本はアジアで初めての立憲国家となった。」(P303)
と説明されていますが、現在ではこのような説明はあまりしません。
このような説明をしないか、したとしても「アジアで初めての『本格的な』立憲国家」という含みのある表現にするようにしています。
というのも、オスマン帝国がタンジマート(恩恵改革)の結果として1876年にミドハト憲法を成立させているからです。
ただし、1年ほどで停止されているので「本格的」とはいえません。
また、チュニジアのフサイン朝ムハンマド=サーディク=ベイの治世下、1861年1月にも立憲君主制の憲法が制定されています。こちらも3年後、フランスの圧力で停止されていますからやはり「本格的」とはいえません。
「本来、憲法というものは、その国の持つ伝統、国家観、歴史観、宗教観を含む多くの価値観が色濃く反映されたものであって然るべきだ。ところが日本国憲法には、第一条に『天皇』のことが書かれている以外、日本らしさを感じさせる条文はほぼない。」(P411)
と、説明されています。
近代的な憲法は、権力を法的に制限するもの(『憲法学』芦部信喜・有斐閣)ですから、その国の持つ伝統、国家観、歴史観、宗教観が反映されていてもかまいませんが、それが法を超えるものであってはならないのは言うまでもありません。
この点、大日本帝国憲法も第四条で天皇の統治権すら制限していることを明記していますし、法律之範囲内という留保はあるものの自由権も規定していますから、その点、近代的な憲法といえますが、告文に『日本書紀』以来の説明が記されている以外、「日本らしさを感じさせる条文はほぼない」ともいえます。