『日本国紀』読書ノート(116) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

テーマ:

116】西南戦争の歴史的意義の説明が誤っている。

 

士族の反乱なのですが…

 

「明治九年(一八七六)から全国各地で、新政府に不満を持つ士族の反乱が続いていたが…」(P298)

 

と、説明されていますが、「明治六年の政変」で、薩摩・長州閥と土佐・肥前閥の対立の象徴として、江藤新平が井上馨を辞任に追い込んだ話をあげられているのに、士族の反乱としての1874年の佐賀の乱に触れられていないのが不思議です。

 

また、明治九年から始まる士族反乱の背景の説明がほとんどありません。

廃刀令が出されたことを引き金に起こった敬神党(神風連)の乱の話もありません。

「新政府に不満を持つ士族」と説明しているのに、士族が何に不満を持っているのかが何も伝わらないのです。

 

やはり、以前に説明したように、「徴兵令」・「地租改正」の説明が不十分で、

薩摩の近衛が徴兵令に反対していたのに山県有朋らがこれを推進したことが明治六年の政変の背景の1つになっていたことが抜けていたり、学制や徴兵令の負担を不満に思っておこった血税騒動にふれていなかったりしたことが、大きな原因です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12439535011.html

 

これに廃刀令、士族の俸禄打ち切り(金禄公債証書の発行)が重なり、士族の不満が一気に表面化したのです。

 

「西郷は留守政府の一員でもあり、板垣や江藤らと行動をともにして多くの改革をなすうちに、藩閥を超えて考えを同じくしていたのかもしれない。」(P295)

 

という説明も史実をふまえていない百田氏の推測で、板垣と西郷の征韓に対する考え方は真逆です。また、山県有朋が山城屋事件で追及されたときも、西郷が山県をかばい、これをかばいきれなかった後悔を大久保利通に侘びています。とても江藤と西郷が考えを同じくしていたとはいえません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440007016.html

 

「しかし、反乱軍はその年の九月には政府軍に鎮圧され、西郷自決し、戦争は終わった。以後、士族の反乱は途絶えた。ここに戊辰戦争から十年続いていた動乱の時代が終わりを告げ、明治政府は盤石の体制を築くことができた。」(P298)

 

と説明されていますが、実は、西南戦争は、明治政府を経済的に苦境に陥れ、「盤石の体制」どころか、財政の根幹を揺るがしてしまいました。

1880年代の大隈重信、松方正義による経済改革を余儀なくされ、後の明治政府の経済政策に大きな影響を与えることになります。

西南戦争の戦費は当時の税収4800万円のうち、4000万円をこえていました。

「破綻」といってもよいと思います。

このため、政府はできたばかりの国立銀行に不換紙幣を発行させます。幕末以来のインフレーションにみまわれ、地租による税収も大きく目減りしました。

1880年、大蔵卿の大隈重信は緊縮財政を展開し、大幅な増税をおこないました。酒税などができたのはこの時です。官営工場の払い下げは、一般的には殖産興業、つまり産業を発展させるため、と説明されがちですが、もう1つの大きな理由として財政難解決のための売却の側面がありました。

その方針を引き継いだ松方正義も、増税・緊縮財政をおこなって徹底したデフレに誘導します。世に言う「松方デフレ」というものです。こんどは大デフレとなりました。

この結果、繭価・米価が暴落する一方、困窮した小農は、地主に土地を売却して小作人となり、小作農率が四割から五割に増加しました。

小作率五割の状態で「現実には日本の地主の多くは大地主ではなく…」(P438)と説明するのは無理があります。

大地主は貸金業や酒造業など資本主義経営をおこなって富裕化する一方、小作人の中には都市に子弟・婦女子を労働者として出稼ぎに行かせました。

デフレによる原材料費の低さ、農村の貧富の差の拡大が安価な労働力を生み出し、それが国際競争力の高い商品の生産を生み出し、日本の「産業革命」に発展します。

 

不思議なことなのですが、1870年代の文明開化を「驚異の近代化」と説明しているにもかかわらず、ほんとうの近代化とでもいうべき「日本の産業革命」を第九章の「世界に打って出る日本」でほとんど触れられていないのは驚きです。

社会経済史の側面の説明がまったくないまま、戦後のGHQの民主化政策・占領政策を説明するのは、正確さも欠きますし、かなりの無理があると言わざるといえません。

 

「多くの歴史家が西南戦争の終結をもって『明治維新』の終わりと見做すのも頷ける。」(P298)

 

と説明されていますが、現在では多くの歴史家が、「明治維新の終結」ではなく「明治維新の転換点」と捉えるようになりました。