【115】すべての政策が即断即決されていないし、拙速に実行されてもいない。
「明治五年(一八七二)以来、李氏朝鮮に何度も国交を結ぶ要求をしていた日本は、明治八年(一八七五)、朝鮮半島の江華島に軍艦「雲揚」を派遣した。しかしこの軍艦が朝鮮に砲撃される事件が起きた(江華島事件)。雲揚はただちに反撃し、朝鮮の砲台を破壊し、江華島を占拠した。」(P297)
国交交渉が膠着する中、停滞した協議を有利に進めるため、軍艦を朝鮮近海に派遣し、軍事的威圧を加える案が出されました。三条実美はこれに反対し、譲歩的な計画を進める寺島宗則の案を支持します。
しかし、譲歩的「外交」を進める外務省の動きに対して、海軍大臣川村純義は、「雲揚」「第二丁卯」の二隻の軍艦を秘密裏に派遣しました。
そうしてまず釜山に入港させ、あらかじめ通知した上で空砲の射撃訓練などを実施します。(艦長の井上良馨は、征韓論者でしたが、航行中、民家の火災を発見して消火活動を支援したり、賄賂を要求する朝鮮の役人に怒って不正行為を糾弾して謝罪させたりなどもしている剛胆な人物です。)
そして沿岸測量を続けながら、首都の漢城沖の月尾島に停泊、ボートを下ろして江華島にむかわせたところ、砲台から攻撃を受けました。
「しかしこの軍艦が朝鮮に砲撃される事件が起きた(江華島事件)。」とサラリと説明されていますが、示威行為と沿岸測量を続けてきた結果、砲撃されたのです。
井上良馨は、9月29日付の上申書に「本日戦争ヲ起ス所由ハ、一同承知ノ通リ」(『綴り 孟春雲揚朝鮮廻航記事』1875年9月29日防衛省防衛研究所戦史部図書館蔵)と記しており、このことからこれらの行動が、朝鮮側からの砲撃を引き出させるための行為であり、軍もそれを承知していたことがわかります。
この経緯は以下の二つに詳しく説明されています。
『江華条約と明治政府』(京都大学文学部研究紀要)
「雲揚艦長井上良馨の明治八年九月二九日付け江華島事件報告書」(『史学雑誌』第111巻第12号)
実際、百田氏も、すでにペリー来航の時にも、P233のコラムでこのように説明しています。
「ペリーが兵隊を乗せた小舟を下ろし、江戸湾(現在の東京湾)の水深を測るという行動に出た時、防備にあたっていた川越藩兵はそれを阻止しようとしたが、幕府から『軽挙妄動を慎め』を命じられた浦賀奉行によって押しとどめられた。自国領内、しかも江戸城のすぐ目の前の海を外国人が堂々と測量することを黙認した幕府の態度は腰抜けとしか言いようがない。」
つまり、日本はこの時のペリーと同様、沿岸の測量をし、首都の目の前の島に投錨して小舟を出しました。
違うところは、幕府は、「軽挙妄動を慎んだ」のに、朝鮮は砲撃をした、ということです。
百田氏は幕府を「腰抜け」と評されていますが、朝鮮は「腰抜け」ではなく、砲撃という過激な行動に出たわけです。もし幕府もペリーの測量に対して阻止する動きをとっていたならどうなっていたか、その結果を推測できる事件を明治政府が示してみせたともいえます。(後の展開を考えれば、幕府の外交姿勢が正しかったことを、朝鮮が証明してくれました。)
日本側は、ただちに江華島と永宗島砲台を攻撃、永宗島の要塞を占領します。
日本側の戦死者は1人、対して朝鮮側は戦死者35人、捕虜16人、鹵獲された砲は30を越える戦果をあげ、戦いは日本側の圧勝に終わりました。
「内外に様々な大きな問題を抱えながら、すべての政策と法律がまさに即断即決で出されている。たとえ拙速であっても果断に対処していく決断力と実行力は見事である。しかもすべての政治家が近代国家というものを初めて運営しているにもかかわらずだ。」(P297~P298)
と説明されていますが、かなり誤解されているようです。ここに至る日朝交渉、江華島事件後の交渉と日朝修好条規締結の過程をあまりご存知ないようです。
まず、この一連の問題は、1871年からの粘り強い交渉が背景にありました。朝鮮側は幕末日本の長州藩のように攘夷熱にうなされていて、日本だけで無く諸外国ともトラブルを起こしていました。
日本国内も対朝鮮強硬派と穏健派に分かれ、「征韓論争」を巻き起こし、それがきっかけで「明治六年の政変」にまでいたっています。「即断即決」など、そんな稚拙な対応を明治政府はとっていません。
諸外国の意見を聞きながら、また、国内の強硬派(海軍)と穏健派(外務省)のバランスをとりながら、交渉を進めています。
「果断に対処していく決断力と実行力」が見事なのではなく、「近代国家というものを初めて運営している」がゆえに、慎重に事を進めて、日本に有利な条約にこぎ着けているところが見事なのです。
フランスにも意見を求めて、これを受けてボアソナードは、釜山・江華港の開港、朝鮮領海の自由航行権、江華島事件に対する謝罪の3つは要求すべき、と「助言」していますし、森有礼は「和約を結ぶ以上は和交を進めて貿易を広げることをすれば、それが賠償金の代わりになる」と強硬より穏健の利を説いています。
ペリーの交渉にも学ぼうとしました。
交渉の前にペリーの『日本遠征記』を熟読、交渉の姿勢などを深く研究しています。
イギリスのパークスは、日本の交渉の経緯を深く分析して注目しており、日本もそのことは熟知していて、イギリス、そしてロシアなどの介入が無いように配慮して交渉を進めています。
明治政府の外交は、「即断即決」でもなければ「拙速」でもありません。
「悠長に政策論議をしている時間的余裕はなかったのである。」(P298)という説明に至っては完全な思い込みで明治政府は、慎重に政策論議を進めて、「拙速」どころか「丁寧に」そして、日本に有利な日朝関係を「巧みに」築き上げるのに成功したのです。