『日本国紀』読書ノート(114) | こはにわ歴史堂のブログ

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114】薩摩・長州閥が「征韓論」で巻き返しを図ったのが明治六年の政変ではない。

 

「危機感を抱いた薩摩・長州閥が、「征韓論」反対で巻き返しを狙ったのが、「明治六年の政変」だった。この政変により、土佐・肥前閥は政府の中枢からほぼ一掃され、以後、明治政府は薩摩・長州閥が幅を効かすようになる。」(P295)

 

と説明されています。独特な明治六年の政変の解釈です。

 

「危機感」とはどういうことかをその前にこのように説明されています。

 

「…司法卿の江藤新平(肥前)が、陸軍大輔の山形有朋(長州)と大蔵大輔の井上馨()を汚職疑惑で辞任に追い込んだことによって、一気に表面化した。これは明らかに土佐・肥前閥が薩摩・長州閥の発言低下を狙ってのことだ。」

 

まず、ここでおっしゃられている汚職事件とは、尾去沢銅山事件と山城屋事件のことだと思いますが。

山城屋事件は、山県の関与が十分に疑われるものでしたが、実は薩摩を中心とする近衛(桐野利秋)と長州を中心とする陸軍の山県有朋の対立が背景で、江藤新平が山県を辞任に追い込んだのではなく、薩摩の桐野利秋らが追及して山県を辞任させたものです。

ほぼ薩摩兵で構成されていた近衛の都督に長州の山形有朋が就いていたことによる長州に対する薩摩の反発は強く、薩摩と長州も対立していました。

江藤新平による尾去沢事件と山城屋事件の追及に関しては、土佐閥は何の関係もありません。

百田氏のような単純な対立の説明は誤りです。

 

「この政変は、表向きは『征韓論』で対立した形だが、実態は薩摩・長州閥と土佐・肥前閥の勢力争いだった。」

 

と説明されていますが、実態は、「薩摩と長州の対立」「肥前の内部対立」「薩摩の内部対立」が複雑に絡んだものでした。

 

 「これは『岩倉遣欧使節団』(内治派)と、その外遊中の「留守政府」(征韓派)と呼ばれる者たちの対立でもあった。」(P265)

 

とも説明されていますが、これは1980年代までによく用いられたドラマや小説でよく設定されたものです。現在はこんな単純な説明はしません。

そもそも井上馨・山形有朋は「留守政府」側でしたし、「岩倉使節団」にいた山口尚芳・久米邦武は肥前閥、田中光顕・佐々木高行は土佐閥です。

(外遊中には重要な政策は実施しないと約束していたのに「地租改正」や「徴兵令」を進めた、と、木戸や大久保が責めるような場面がドラマや小説ではみられますが、それらは長州の井上・山県が進めたものでもあります。)

 

「…政府内で、西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らを中心に『征韓』を唱える声が上がった(『征韓論』)。しかし、大久保利通や木戸孝允らは、対外戦争はまずいと判断して反対する。大久保らはまず国内をしっかり治めることが最優先であると考えていた。」(P294)

 

「征韓論」をこのように説明するのは現在ではめずらしいです。

 

武力討伐を唱えたのは板垣退助です。

武力征伐に強く反対したのは西郷隆盛でした。

「明治政府が李氏朝鮮と近代的な国交を結ぼうとし」た(P294)ことに対して、李氏朝鮮はあくまでも「旧礼」つまり旧幕府時代の形式で外交を進めようとしました。

過度な大院君の排日運動に対して、日本の居留民の保護を名目に軍を派遣しようと主張した板垣退助に対して、西郷隆盛は旧礼にのっとり、旧礼の対応方式で使節として赴き問題を解決する、と主張しました。副島種臣もこれに同意しますが、使節は自分が行く、と主張しています。(ちなみに「自分が殺されたら、それを大義名分にして朝鮮を攻めろ」とは西郷隆盛は言っていません。)

 

大久保利通・木戸孝允は、西郷隆盛が使者として赴くことが戦争に発展することを危惧しました。その点、「対外戦争はまずいと判断して反対する」という説明は正しいですが、「大久保らはまず国内をしっかり治めることが最優先であると考えていた。」というのは一部誤りで、これを主張したのは木戸孝允です。

大久保は、清との懸案であった琉球帰属問題、ロシアとの樺太・千島領有問題、イギリスとの小笠原諸島領有問題の解決を優先すべきだ、と主張したのです。

ですから、この点は、木戸と大久保も考え方が違っていました。

 

「征韓論」と言われていた板垣と西郷の意見は根本的に違い、「内治派」と言われていた木戸と大久保も根本的に意見が違うんです。

 

ですから、大久保は、明治六年の政変後、「台湾出兵」をおこない、琉球の日本帰属を明確にさせようとし、後の政府が結ぶ樺太・千島交換条約を実現する準備をしました。

(ちなみに、木戸孝允が台湾出兵に反対して政府を辞めた理由もこれで説明できます。)

 

前から言うように、通史はネタフリとオチが大切。

征韓論と明治六年の政変の話を史実に基づいてちゃんと説明していれば、P296の「台湾出兵」の話も樺太・千島交換条約、そして前に水野忠徳の小笠原諸島領有の努力の話も、みんな繋がったのに、なんとももったいないところです。

 

「この政変により、土佐・肥前閥は政府の中枢からはほぼ一掃され、以後、明治政府は薩摩・長州閥が幅を利かすようになる。」(P295)

「ただ奇妙なのは、この時、追い落とされた中に、元薩摩藩の西郷隆盛がいたことだ。」()

 

土佐・肥前藩は政府の中枢からほぼ一掃され、と言われていますが、あくまでも百田氏が知っている人物がいなくなっただけだと思います。征韓論に賛成していた大隈重信も大木喬任も肥前ですが明治政府の要職についていますし、福岡孝弟、谷干城、佐々木高行は土佐ですが、やはり明治政府の中枢にありました。

「ただ奇妙なのは」と思ってしまうのは、征韓論を誤解し、明治六年の政変を単純に薩長・土肥の対立と解釈しているからです。