【113】世界史を見渡せば、急激な近代化を成し遂げた国はアジアにもある。
「世界史を見渡しても、これほど急激に近代化を成し遂げた国はない。」(P294)
と説明されていますが、アジアだけに例をとっても、近代化を「成し遂げた」国はわりとあります。もちろん19世紀にしぼってもそれは言えます。
そもそもP291~P294にかけて説明されている「驚異の近代化」は、どう読んでも1870年代の話です。1870年代は「近代化を成し遂げた」とはとてもいえない状況です。
「近代化に取り組み始めた」というべきでしょう。
「近代化」を「西洋のものまね」、というならば70年代はそう言えるかもですが、「成し遂げた」というならばやはり日清戦争と日露戦争の間くらいではないでしょうか。
もっとしぼって1868年の五か条の誓文に始まり、1889年の大日本帝国憲法の制定までを「近代化」として考えてみると…
まずオスマン帝国は、19世紀の前半にギュルハネ勅令を発して1876年の憲法制定まで、「タンジマート」という近代化を進めました。
その初期はまさに明治維新。
タンジマートの前にイギリスと通商条約を結び、これは、イギリスがアジア諸国とむすぶ条約の原型となります。
その後、1839年、ギュルハネ勅令によって、西洋式の政治体制をつくって省庁制を導入、軍事・政治・文化・教育の西欧化を始めました。中央集権的な官僚体制もつくられ、近代的な軍隊を整備し、1840年代初期には銀行もつくられ、近代的な教育機関としての学校も設立されました。
岩倉具視使節団にも参加していた福地源一郎と島地黙雷は、オスマン帝国がイギリスとむすんだ不平等条約改正を順調に進めていると知り、オスマン帝国に行ってそれを見習おうとし、さらにはオスマン帝国の裁判制度を取り入れようと研究しました。
タンジマートは明治維新の手本にもなっています。
それから、清で進められた「洋務運動」は、規模も投入された資金も、はるかに明治維新を上回るものでした。
「洋務運動」は1861年から始まります。
大量の鉄砲・軍艦の輸入から入り、電報の設備、製紙工場・製鉄所、陸海軍の学校、西洋書籍翻訳局を次々に設立しました。
61年から64年にかけてほぼ西洋式の軍需工場を完成させています。
教育・留学事業も大々的に進み、1862年には京師同文館という外国語研究機関もつくられ、軍事大学でも、66年には近代的な軍事教育を受けた卒業生を出し、準備された艦隊や軍隊の士官を供給しています。
清に対する軍事的な遅れを意識していたからこそ、1880年代の松方財政でも軍事費だけは削減できず、後の山形有朋の「利益線」論につながっていきます。
日清戦争を前に明治新政府も、洋務運動による中国の急激な近代化とその成果を十分認識していました。洋務運動は、日本の近代化を促した(焦らせた)隣国の成功例です。
タイの「チャクリ改革」は、明治維新とよく対比されます。
ラーマ5世は1868年、15歳で国王となりました。この点、明治天皇と同じような状況です。
また、イギリスやフランスがタイをめぐって外交上の「かけひき」を展開していたことも日本の状況と似ています。
奴隷の解放や封建的支配を受けていた下層市民・農民を解放するなど近代的な社会改革をまず始めました。人材育成のための学校の設立をはかり、エリート養成だけでなく義務教育を開始します。
王室メンバーの海外留学だけでなく、中流階級の留学も奨励し、すべての官僚が留学経験者となりました。
軍事改革も陸軍を中心に進められ、諸貴族や地方勢力とむすぼうとする英・仏を牽制する力となったことから、軍と国王の密接なつながりが生まれます(後のタイの政治に軍が国王に忠誠を誓いながらも政治に関与する由来はここにあります)。
内政面でも、鉄道・道路の整備、電信・電話、郵便、そして水道を整備しました。
地方勢力の委任統治を廃止したことは版籍奉還、廃藩置県によく似ており、州を置いて、郡制・町村制をしいたのは、日本で山形有朋がドイツ仁顧問モッセの助言で地方制度を整備したことにそっくりです。
これらは明治維新とほぼ同じ20年間の成果です。
「近年、東南アジア諸国において、日本の明治維新が研究材料となっていることも頷ける。」(P292)
「研究材料になっている」「研究されている」という場合、その根拠となることは何でしょうか。政治家が研究していたり大学で研究していたり、ということでしょうか。
百田氏の根拠は不明ですが、東南アジアで、比較的親日的と言われていて、日本の文化・研究が進んでいるインドネシアを例にとってみますと…
「インドネシアにおける日本研究の現状と将来」(インドネシア大学・イ=ケット=スラジャ)の分析をみると、日本の歴史の研究はかなりさかんなことがわかります。
論文の例があげられていますが、「明治時代の自由民権運動」「明治時代の教育」「日露戦争」「聖徳太子」「キリスト教と鎖国」「明治時代の女性運動」「岩倉具視」「太平洋戦争」「1946年日本国憲法」「北方領土問題」「町人の歴史」「自衛隊」「西郷隆盛」「日清戦争」「西周」「出島」「財閥」「平安時代」「満州事変」「殖産興業」「安保条約」「明六社」「日本の台湾侵略」「総合商社の歴史」「天皇裕仁」のテーマがみられます。
多岐にわたってはいますが、「明治時代」が多いのは明白ですね。
たしかに百田氏の指摘のように「日本の明治維新が研究材料となっている」といえますが、問題は明治維新の「何を」研究しているか、です。
スラジャ氏は、この論文の中で、
「発展途上のインドネシアが直面する問題の背景を考察する時、1960年代後半以来の日本の経済的な成功を含めて、明治維新から第二次世界大戦終結にいたるまで、日本が民主主義を確立できなかったことは、非常に興味をそそる。」
と説明しています。近代化が民主主義にいたらなかった理由と問題を「明治維新」に見出そうとしているんですよ。
他国の研究の視点は、「日本はすごい」、という日本側の楽天的・自己満足的な評価とは無縁なところに向けられている、と思わなければ滑稽です。
岩倉具視使節団も、イギリスやアメリカを視察し、その繁栄の「陰」の部分をちゃんと学んでいます。
明治初期の、まだ見た目だけの「西洋のものまね」は、近代化を成し遂げた、とはもちろんいえません。
当然、当時の日本人からも批判されていて、民友社の徳富蘇峰は、政府の進める欧化政策を「貴族的」であると批判し、「上からの欧化」ではなく、「下からの欧化」を説きました。
また、政教社の三宅雪嶺は、国粋主義の立場から欧化政策を批判し、これは政府内でも、井上毅・谷干城などからも反発をうけています。
現実、「すごい」ところばかりにとらわれない、というのが正しい歴史の研究だと思います。