【112】1870年代の都市の様子を1880年代の様子と誤解している。
さまざまな近代化、文明開化の例があげられています。
「明治四年(一八七一)、『散髪脱刀令』を出し、男性はそれまでの髷を切り、いわゆる『ざんぎり頭』になった。華族や士族などは洋服を着るようになり、靴や帽子も流行した。牛鍋店、パン屋、西洋料理店が増え、ビールや紙巻タバコが売られるようになった。上流階級の生活に椅子やテーブルが使われるようになる。」(P293)
「その頃の銀座の風景を描いた絵や版画を見ると、江戸時代からわずか数年後の街並みとはとても思えない。」(P293)
と説明されて、銀座が「馬車の行き交う街」と紹介されています。
「その頃の銀座」の絵や版画の何をみられたのでしょうか。
もし、「馬車」といっても、「鉄道馬車」の描かれた絵ならばそれは1882年以降の銀座を描いた絵で、江戸時代から「わずか数年」ではなく、十数年後の銀座です。
馬車は、浅草から新町まで1874年から1880年まで営業していました。しかし、一日六往復ですので「行き交う」というような状況ではありませんでした。
その頃の銀座の様子を描いた浮世絵がありますが、おもしろいのは、その頃はまだ着物やちょんまげの人がいることです。
煉瓦造りの都市計画、といってもまだ不十分で、一階は煉瓦、二階は木造といったものでした。
銀座の大火の後、「不燃都市」をめざして煉瓦造りの都市計画を進めたのは由利公正でした。火災後の道路の拡幅を図ったのですが、被災した人たちが銀座にもどる時には、地価が大幅に値上がり、以前よりはるかに高い賃料が必要となってしまいました。また再建に木造を禁止したので、実際、多くの人が銀座には戻れず、他地域からのお金持ちが移住して店などをかまえることになります。
せっかく煉瓦造りの建物にしたのに、賃料が高くて空室もめだち、やはり1882年以降でないと、教科書の挿絵などにみられる「銀座の煉瓦街」は実現していません。
江戸時代からの「数年後」はまだ人々の生活・風俗は都市部でも江戸時代のままでした。まして農村部では太陽暦も広がらず、都市部は1880年代以降、農村部は日清戦争後でなければ「明治の空気」にはなっていません。
「こうしたことが戊辰戦争終結後の五年以内に行なわれたのは驚愕の一言である。しかも版籍奉還や廃藩置県を行ないながらである。」(P293~P294)
と説明されていますが、「五年以内の」近代化の風景ではなく、80年代・90年代の風俗と混同されていて、教科書や風景画にみられるような世界は、版籍奉還・廃藩置県後、さらに10年を必要としなければ実現していません。