【120】東学党の乱は2回あって、1回目は鎮圧されたのではない。
「九年後の明治二七年(一八九四)二月、朝鮮で大規模な農民反乱(東学党の乱)が起きた時、朝鮮政府から要請を受けた清が軍隊を送った。そこで日本も天津条約により朝鮮に派兵した。乱が鎮圧された後、朝鮮政府は日本と清に撤兵を求めるが、どちらの軍も受け入れず、一触即発の緊迫した状況の中、七月二十五日、ついに両国の軍隊が衝突し(豊島沖海戦、二十九日には成歓の戦い)、八月一日には、両国が同時に宣戦布告した。」(P307)
と、説明されています。
「乱が鎮圧された後」と記されていますが、これは誤りです。
これでは派兵された軍が東学党の乱を鎮圧したような誤解をあたえます。
それにしても、どうしてこんな簡単な誤りをされているのでしょう。近代に入ってからの記述には誤解も誤りも、これまでの章以上に増えているような気がします。
東学党の乱は1894年に起こっていますが、実は閔氏の政権になってから、1880年代以降、各地で減税をスローガンにして一揆が頻発していました。
一方、日本は、国内の軍事改革を進めていきます。すでに1878年、参謀本部を新設して統帥部を強化し、1882年には軍人勅諭を発して「大元帥」である天皇への軍の忠誠を説くとともに、軍人の政治関与を強く戒めています。
大隈重信、松方正義の両大蔵卿の下に進められた増税・緊縮財政の中でも軍事費だけは削減されず、1888年には陸軍の編制が国内治安・防衛を目的とした「鎮台」制から「師団」制に改編され、対外進出を目途とした軍の整備を進めました。
自衛戦争ではなく、すでに清との戦争を始める準備をしていることがわかります。
朝鮮は、清との連携を深め、日本の経済進出に対抗するため、朝鮮は大豆などの穀物の日本への輸出を禁じる防穀令を出します。これに対して日本政府は強く抗議して廃止させ、禁輸中の損害賠償を請求し、1893年には最後通牒をつきつけてその要求を認めさせています。
こうして1894年、朝鮮では東学の信徒を中心に減税と排日を要求する農民の反乱(東学党の乱)が起こったのです。
驚いた閔氏政権は、清国に出兵を要請しました。清国は兵を出すとともに天津条約に従って日本に通知します。こうして日本も出兵しました。
農民軍は、この事態に急いで朝鮮政府と和解したのです。「乱が収束した」というならまだしも「鎮圧された」は明確に誤りですし、現在の教科書でそのような記述をしているものはありません。
「朝鮮政府は日本と清に撤兵を求めるが、どちらの軍も受け入れず、一触即発の緊迫した状況の中…」
これでは日清が何もせずににらみ合っていたような状況にみえますが、実際は違います。
7月23日、日本軍混成旅団が行動を開始、うち歩兵1個大隊が首都漢城に入って王宮を占拠、国王を確保することに成功します。
そしてなんと、かつて排日を唱えていた大院君を擁立して新政権を樹立させました。
そして、その政権に清軍を掃討する依頼を出させて、海では7月25日に豊島沖で、陸では7月27日に成歓で開戦に及んだのです。
「八月一日には、両国が同時に宣戦布告した。」とされていますが、正確には「同日に」ということで、まず日本が宣戦を布告し、それに応えて清が宣戦を布告しました。
「近代装備に優る日本軍は各地の戦闘で清軍を圧倒し…」とありますが、これも少し古い教科書にみられる説明です。
実は、洋務運動以来、清国軍の装備は近代化されていて、装備の優劣で勝敗がついたのではありません。
この点、戊辰戦争で、「幕府が旧式、官軍が近代装備だった」という説明を現在ではしないのと同様、日本軍の「戦い方」が近代化されていたことによる勝利です。
ドイツ型の参謀本部の設置、軍を治安・防衛型の鎮台形式から対外戦争型の師団形式に変更していたことが主な理由で、「軍隊の訓練・規律、兵器の統一性などにまさる日本側の圧倒的優勢のうちに」(『詳説日本史B』山川出版・P290)戦いは進みました。
この間、10月、東学党による第2次蜂起が朝鮮半島で起こりました。今度は日本軍と朝鮮新政府に対する反乱です。11月には日本軍と農民軍が衝突しますが、これこそ近代装備で圧倒的に優る日本があっというまに蹴散らし、東学党の第2次蜂起は霧散してしまいます。東学党の乱は2回あり、2回目が日本によって鎮圧されたのです。
日本軍は、清国軍を朝鮮から駆逐するとさらに兵を進めて清国本土に侵入し、遼東半島を占領、清国の北洋艦隊を黄海海戦で撃破し、威海衛にあった海軍基地を制圧します。
こうして戦いは日本の勝利に終わり、1895年4月、下関で講和条約が結ばれることになりました。