【89】「不平等条約」の不平等を誤解している。
ハリスと結んだ日米修好通商条約は不平等条約ですが、これに関してもたいへん誤解されています。
まず、一般に不平等の内容ですが、大きく二つのことがあげられます。
一つは「領事裁判権」を認めていた、ということ。
もう一つは「関税自主権」が無い、といこと。
「『領事裁判権を認める』とは、アメリカ人が日本で罪を犯しても、日本人が裁くことができないということだ。極端なことをいえば、アメリカ人は日本で犯罪をやり放題ということになる。」(P235)
この解釈は誤っています。
条文を正確に読むとわかりますが、「アメリカ人の犯罪には、アメリカ人の法律が適用される」、ということです。
百田氏は、アメリカ人が日本で犯罪をした場合、アメリカ領事はアメリカ人を無罪にするとでも思っているのでしょうか。
アメリカ人が窃盗を犯せば、日本の公事方御定書が適用されるのではなく、アメリカの刑法が適用される、というだけのことです。
(参考・『近世の日本において外国人犯罪者はどのように裁かれていたか』荒野泰典より)
アメリカにせよイギリスにせよ、日本で自国人が罪を犯すことがないよう、かなり厳格に在留外国人には徹底していましたし、生麦事件のときもイギリス領事は居住民が報復しないように厳に戒めています。
それから「関税自主権」や「貿易」に関する説明も、誤っています。というか1866年の段階の話と混同されています。
「この時決められた関税率は、輸入品には平均二〇パーセント、輸出品には五パーセントというものだったが、輸出品の関税が低かったのはアメリカが日本の生糸を大量に買いたかったからである。」
と説明されているのですが…
関税は、ふつうは相手国とは相談なく、自国で決定できるものです。
「関税自主権がない」というのは、協定関税、つまり関税を話し合いで決める、ということです。一方的にアメリカが決めたことではありません。
実は、1858年の段階では、「関税自主権がない」ことはとくに問題ではなく、同じころ、中国が締結した天津条約の輸入関税は5パーセントでしたから、当時の国際水準からいえば不平等どころかたいへん妥当なものです。
「輸出品の関税が低かったのはアメリカが日本の生糸を大量に買いたかったからである」と説明されていますが、これ、日本が生糸を輸出すれば、幕府に関税収入が入るしくみができた、というだけのことです。
この輸出関税5パーセントのおかけで、アメリカが生糸を買えば買うほど幕府は儲かり、実際、1864年の幕府の関税収入は174万両におよびました(幕府の歳入の18パーセント)。
「その結果、条約締結以降、国内の生糸価格が高騰する一方で、外国から安価な綿織物が大量に入ってきて、国内の綿織物業が大打撃を受ける状況になった。」(P235)
これもこの時点ではまったく誤った説明です。
国内の木綿生産に影響を受けるのは1866年の「改税約書」で輸入関税が一律5パーセントに引き下げられてからのことです。「改税約書」締結後の話と日米修好通商条約の話を混同して説明してしまっています。
実は綿織物業よりも、大きな問題は綿花の生産でした。
インドからの安価な綿花が輸入され、河内・濃尾平野の綿花畑はどんどん無くなります。
国内の綿織物業は、安価な綿花による生産に移っていったのです。
むろん木綿業にも影響は受けましたが、もともと綿織物生産のベースがあったために、後に南河内、濃尾平野の紡績業の発展につながりました。
「現代なら中学生でもわかるこんな不利な条件を、なぜ呑んだのかといえば、ひとえに当時の幕閣たちの無知のせいである。それまで大々的に国際貿易を行なったことがなかったので関税の重要性を理解していなかったのだ。」(P235~P236)
とありますが、日米修好通商条約は、不利な条件では無いから呑んだわけで、幕閣は無知ではありませんでした。
関税の重要性を知らなかったわけではなく、輸出関税5パーセントを認めさせて多額の税関収入を幕府は得ています。
百田氏が、1866年の「改税約書」の問題と1858年の「日米修好通商条約」の問題を間違えておられるだけです。
そもそも「改税約書」はなぜ幕府を認めることになったのか。
「…条約に書かれた兵庫海溝の遅れを理由に…」(P262)幕府に列強が改税約書を認めさせた、と百田氏は説明されて、あたかも幕府に責任があるかのように説明されていますが、イギリス公使パークスは、「下関戦争」の賠償金を2/3に減免することを条件に「条約の勅許」「兵庫の早期開港」「関税引き下げ」を要求しています。
「下関戦争」、つまり、長州藩による諸外国への攻撃が原因で、日本は「不平等な」条約をおしつけられるはめになったんです。
「幕閣たちの無知」のせいではなく「長州藩の無謀」が原因です。
「現代なら中学生でもわかるこんな不利な条件を、なぜ呑んだのかといえば、ひとえに当時の長州藩の無謀のせいである。」
と説明すべきでしょう。
「…世界では銀の価格が急落し、金との交換比率は一対十五にまで開いていた。ところが幕府は長年の鎖国でそのことを知らなかったため、外国人に利用され、大量の金が日本から持ち去られたのだ。」(P236)
と説明されていますが、実は、幕府はちゃんと海外と国内の金銀比価の差は知っていました。流失してしまったのは無知からではなく別の事情からです。
もともとは、金貨の持ち出しは禁止されていたのですが、幕府は外国の貨幣と日本の貨幣が交換されることを嫌い、外国の貨幣をそのまま日本で使用する案を提案しました。ハリスは、急に日本国内でアメリカの貨幣を通用させるのは混乱する、というので一年間に限り、交換することを認めたのです。
ちなみに、最近の研究では、その後、幕府の貨幣対策で1861年には沈静化し、従来言われていたような50万両の流失というのは過大であると考えられるようになりました。
「江戸時代夜・明治維新夜明け」、明治維新後の「幕府無能」論の影響で、幕末の経済混乱についても評価が必要以上に歪められています。
安政の五か国条約の「関税自主権が無い」「治外法権を認める」という内容が、不平等条約として認識されて、改正に力が入れられるようになったのは明治維新後の話で、調印当初は、この二つが不平等であった、という認識はなかったのです。