『日本国紀』読書ノート(88) | こはにわ歴史堂のブログ

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88】庶民が政道そのものに意見ができるというのは世界にはいくらでも例がある。

 

「庶民が政道そのものに意見ができるという状況は、日本史上なかっただけでなく、当時の世界を見渡しても例がないことであった。」(P232)

 

まったくの誤認です。

世界の状況をご存知ないばかりか、日本の当時の状況もあまりご存知ないようです。

「庶民」をどのレベルでお話しされているのかわかりませんが、「当時」を19世紀と理解して説明させていただきますと、まず近代的な政治システムの中でもすでに18世紀のフランス革命期のジロンド派政権で「男性普通選挙」が実施され、国民公会が成立しています。

そもそもアメリカ合衆国は、1776年に独立宣言を出し、国民主権はもちろん、ロックの思想に基づいて革命権も認めています。「政道そのものに意見できる」どころか、国家元首を選挙で選び、人民の手で政権交代ができる制度が成立しています。

立憲君主政の下、貴族も存在していたイギリスでも、議会の下院は「庶民院」という名称で、1830年代には産業資本家が選挙権を有しています。1848年以降は労働者も選挙権を求める運動を起こしています。フランスでは二月革命が起こり、1848年には男子普通選挙が行われ、政権に社会主義者も参加しています。

「世界を見渡して例がない」などと、どうして力説されているのかよくわかりません。

 

「…大名に止まらず、旗本や御家人、さらには町人にまでアイデアを求めていく。これは江戸時代始まって以来の画期的なことだった。」(P232)

 

これも誤りです。

天明の飢饉の時に、全国の大名にその対策について幕府は意見を聞いています。その際、領内の人々の意見をとりまとめてもよい、というようなことを伝えていたため、藩の中には庶民に意見を求めています。

本居宣長は、当時、松阪の庶民の一人(町医者ですから士分扱いといえなくもありませんが)ですが、紀州の殿様に『秘本玉くしげ』を献じていますが、これができたのは、こういう背景があったからです(1787)

 

また、「海防」ということに関しても、日本海側の諸藩では、18世紀初期からすでに異国船の来航(遭難・漂着)に対応してきているんです。

百田氏がご存知無いのか意図的に無視されているのかわかりませんが、新井白石の「正徳の治」のときから、沿岸警備・抜け荷防止のための全国取り締まり令を発しています。徳川吉宗も1718年に「唐船打ち払い令」を出しています。

これをうけて松江藩は実際に打ち払いを実行しています。

異国船の打ち払い、あるいは薪水給与、ということは、幕末、藩や民衆に突然降ってわいたことではなく、従来の政治の延長線上の「事件」で、各藩それぞれのマニュアル、民衆レベルの意識はそれなりにありました。

 

房総半島の漁民・農民たちは、すでに蝦夷地警備に動員され、さらに化政期には大名の警備配置などを通じて農民たちは「御手伝い」をしていて、民衆レベルの危機意識も高まっていました。

異国船打ち払いにせよ薪水給与にせよ、農村ではそれなりの負担をしているので、外国の情勢に無知ではおられず、むしろ肌身で感じていました。

名主や豪農たちは、林子平の『海国兵談』、工藤平助の『赤蝦夷風説考』だけでなく、長崎の情報も手に入れて「世界情勢」を彼らなりに得ようと努力していることもみてとれました。「海防差配役」など村落の有力者に課されている場合も多くみられます。

 

幕府や藩は、こういった庶民・農民層に役職を与え、支配体制に組み込みながら、地域の情報収集、沿岸警備などの海防を実現しようとしていました。

異国船発見の情報伝達、軍需物資の手配、大名沿岸警備の御手伝い、台場の建設の手配など、村人、地域の有力者、とくに商品作物生産などを通じて成長してきていた豪農らの協力無しには海防体制は築けなかったのです。

(このあたりの最新研究は、『黒船がやってきた』(岩田みゆき・吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)にたいへんわかりやすく紹介されていますので、是非お読みください。)

こういう背景をふまえて、次の一文を改めてお読みください。

 

「…大名に止まらず、旗本や御家人、さらには町人にまでアイデアを求めていく。」(P232)

 

一見、幕府が「特殊なこと」をしているように見えますが、当時の藩や幕府にしてみれば、何も特別なことを農民や庶民に求めていたのではありませんし、豪農たちも、とくに目新しいことを求められたようには感じていなかったのです。

 

「同時に、今の幕府では国が守れないのではないかという危機感を、多くのものが抱いた。」(P233)

 

というのも誤解です。

これは後の明治新政府ができてからの「歴史」から生まれたイメージで、「江戸時代夜・明治時代夜明け」という、かなり古い歴史認識での説明です。

むしろ、この段階では、幕府とともに一体感をもって危機に対応していこう、という姿勢を感じます。

たとえば幕末、孝明天皇の御意志は、幕府しっかりせよ、という感じで、むしろ幕府以外では国は守れない、という空気のほうが強かったと思います。

 

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