『日本国紀』読書ノート(87) | こはにわ歴史堂のブログ

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87】ペリーの来航で幕府は狼狽していない。

 

何度も説明してきましたが、幕府は「異国船」の来航に関して、「右往左往」していたり「狼狽」したりしていません。

「江戸時代夜・明治時代夜明け」という、古くさい歴史観の発想です。

大河ドラマや時代劇でも1970年代から80年代あたりは、まだこの論調で歴史が語られ演出されてきました。

「幕末の志士」たちが先見的で、幕府は保守・頑迷…

むしろ、「幕末の志士」たちのほうが「右往左往」して「狼狽」し、ゆえに過激な尊王攘夷論に踊らされ、幕末テロ・異人切りに走っていたというべきではないでしょうか。偏った情報で、偏った思想を養い、偏った行動をとる、というのはいつの時代でもみられるものです。

現代のわれわれは、幕末の状況を「一面的」に見る愚は避けないといけません。

 

「翌嘉永六年(一八五三)六月三日(新暦七月八日)、ペリー率いるアメリカの軍艦四隻が浦賀にやってきた。そして武力行使をほのめかして、開国を要求した。この時、幕府は慌てふためくばかりだった。というのも、何の準備もしていなかったからだ。」(P224)

 

というのはあまりに一方的かつ前時代的な説明です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12433912416.html

 

P260P261で、「水野忠徳」の説明をされていますが、この人物を百田氏は高く評価されていて、

 

「江戸幕府の旗本であった忠徳は、長崎奉行時代に幕府海軍創設に奔走し…」

 

と説明されています。

彼を登用したのは老中阿部正弘で、水野忠徳だけでなく、岩瀬忠震、川路聖謨など有能な幕僚群がこの時活躍しているんですよ。

水野忠徳は1852年に浦賀奉行に任じられ、さらに阿部正弘は、翌年の「ペリーの来航に備えて」(オランダからの情報で来航を把握していた)、この有能な官僚を1853年に長崎奉行に任命しています。

後に水野忠徳を高く評価されているのに、ペリー来航前に「何の準備もしていなかった」とか「慌てふためくばかりだった」と説明されているのは不思議です。

また、川路聖謨は1853年に海岸防禦御用掛に任じられ、さらにはロシアのプゥチャーチンとの交渉を展開、岩瀬忠震は日露和親条約に重要な役割を果たしています。

「幕末三俊」と称えられた岩瀬忠震・小栗忠順・水野忠徳は、ペリー来航前の準備、ペリー来航時の対応をした幕府の官僚でした。彼らは60年代になって急に有能になったわけではありません。

ですから、「慌てふためくばかり」とか「何の準備もしていなかった」というのは言い過ぎです。

そもそも、明治維新後、このような「評価」ができたわけで、老中阿部正弘以下の幕府の役人が「慌てふためくばかり」で「何の準備もしていなかった」ということを示す根拠はきわめて希薄なのです。

また、

 

「…この時、アメリカ艦隊はいつでも戦闘を開始できる状態であった。」(P225)

 

と説明されています。

1852年の計画書では、サスケハナ・サラトガ・プリマスに加えて、別の蒸気船4隻、帆船の軍艦6隻の計13隻の大艦隊で日本に向かう予定でした。

ところが実際、使用可能な別の蒸気船の軍艦はミシシッピ1隻だけで、おまけに、帆船6隻は予算がおりずに結局除外されてしまいます。

来航時、蒸気機関を稼働できていたのはサスケハナだけで、ミシシッピは故障のために曳航されてやってきました。そしてサラトガ・プリマスは帆船で蒸気船ではありません。

アメリカ側の状況をみる限り、とても「いつでも戦闘を開始できる」ような軍事力と配備ではなかったことがわかります。

湾内に入った艦隊は、幕府側の襲撃を「おそれて」戦闘態勢に入っていました。

つまり攻撃ではなく、「防禦」のための臨戦態勢であったことがアメリカ側の史料でわかっています。

「空砲」による「威嚇」についても、江戸の町人たちにはあらかじめ幕府が「空砲」が撃たれることを「お知らせ」しており、最初は驚いた江戸の町人たちも、やがて湾岸に見学に集まるなど、町人側に残る史料では「花火」を楽しむように集まった、と記されています。

まさに「舐めら」ていたのはペリー艦隊のほうだったかもしれません。

 

当時のアメリカ側の「事情」を付加するならば、アメリカのジャーナリズムや政府は、当時、イギリス・フランスなどの列強に「遅れ」をとっていたこともあり、イギリスなどの「軍事力」による植民地支配を「批判」している立場にありました。

もし、非戦闘員が居住する江戸を砲撃などすれば、ジャーナリズムは一斉に反発し、またイギリスやフランスを非難できなくなるので、政府は武力行使を容認する情勢にはありませんでした。

(実際、当時から国際世論やジャーナリズムの影響力は強く、後年、生麦事件の報復で、イギリスは薩摩藩と戦争をしますが(薩英戦争)、鹿児島市内を砲撃したことが国際世論の反感をかい、日本への強硬策をとれなくなりました。)

 

ちなみに、以下は蛇足ですが…

例によって、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、という話です。

 

「アメリカ艦隊が去った十日後、将軍家慶が死んだ。暑気中りで病臥して六日後に亡くなったのだが、おそらくは黒船来航による精神的なショックも影響したと考えられる。」(P231)

 

と、説明されているのですが…

ペリー来航は西暦18537月8日です。嘉永六年六月三日に該当します。

西暦で1853年7月17(嘉永六年六月十二日)にペリー艦隊は浦賀を出港しました。

家慶の死は嘉永六年六月二十二日と記録されています。

つまり、西暦では1853726日になります。「暑気中りで六日後に亡くなった」ということは、720日頃に発病した計算になります。

ペリー艦隊が去ってから三日後に発病していることになりますが、実は、老中阿部正弘は、西暦1853711(嘉永六年六月六日)に「将軍が病気に伏せっていて決定できない」として「国書を受け取るくらいは仕方が無い」という決定をしています。

「病臥して六日後」ではなく、「十六日後」、の誤記ではないでしょうか。