【86】ラナルド=マクドナルドは「Soinara」と記していない。
ラナルド=マクドナルドは「冒険家」と紹介されていますが、もちろん彼は「冒険家」ではありません。銀行員を経験しますが、その後、父に軍人になりたい、と伝え、その後、出奔…
「船乗り」となり、非合法の奴隷船にまで乗り組んだ経験があります。
船員仲間に、明確に「日本渡航の目的」を示していて、
「日本の国民を知りたい。」
「われわれのことを彼らに教えたい。」
「彼ら(日本人)の教師になる。」
「この島国に滞在し、日本語を学び、日本の首都エドに出て、イギリスかアメリカと日本が通商を始めたら通訳になりたい。」
と述べている記録があります。(『海員の友』1848年12月1日号・ホノルル発行)
「…彼が日本文化に関心を持ち、また聞き覚えた日本語を使うのを見た長崎奉行は、日本人通詞十四人に英語を教えることを許す。」(P223)
と、説明されています。実はインターネット上の説明(Wikipedia)にも、
「マクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問もあることを知った長崎奉行は、オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせることにした。」
とあるのですが…
そもそもマクドナルドは密入国で取り調べられ、「座敷牢」とはいえ牢に監禁されていた「罪人」です。
長崎奉行は日本人通詞に、マクドナルドに英語を学ばせたりしていません。
マクドナルドの『日本回想記』(刀水書房・富田虎男)にもそのようなことは書かれていません。
というか「英語教師となった」というのは『回想記』にみられるマクドナルド自身の言葉で、長崎奉行から任命された「仕事」ではないのです。
他の捕らえられた船員に比べて、マクドナルドは「模範囚」だったようで、それは日本側の記録にも残っています。
「この者はいたって礼儀正しく、諸役にも丁寧であるか、右十五人の者はまことに下賤に見え、無礼をはたらくので役人も困っている。」(『弘化雑記』「合衆国漂流民風聞記」より)
『回想記』を読むと、奉行所の取り調べが終わった後、オランダ通詞の森山栄之助と植村作七郎の二人が松森神社参道にあった大悲庵の座敷牢に、「取り調べ」と称して毎日のように通って来ていたことがわかります。
そして二人が連れてきた人々が彼の「生徒」となったようです。二人を含めて14名。
どうやら、奉行に命じられたのではなく、彼らの「意思」で英語を学びに来ていたようなんですね…
マクドナルドの英語を教えたい、オランダ通詞たちの「これからはオランダ語ではなく英語であるから英語学びたい」という両者の「熱意」が生んだ「座敷牢の私塾」というのが真相でした。
松山栄之助と植村作七郎以外では、西与一郎・西慶太郎・小川慶次郎・塩谷種三郎・中山兵馬・猪俣伝之助・志筑辰一郎・岩瀬弥四郎・堀寿次郎・茂鷹之助・名村常之助・本木昌左衛門らが『回想記』に記されたマクドナルドの「生徒」です。
「後にペリーとの交渉で通訳を務めた森山栄之助と堀達之助はマクドナルドの教え子である。」(P223)
と説明されていますが、これも誤っています。堀達之助はマクドナルドの教え子ではありません。
「七十歳で亡くなったが、最期の言葉は『Soinara(さようなら) my dear Soinara』であったという。彼の墓碑にも『SAYONARA』の文字が刻まれている。」(P224)
と説明されています。
この「Soinara(さようなら)」なのですが、インターネット上の説明でよく出てきます。
実はこれ、誤りなんです。
『回想記』でも、
「Sionara」
と、記されています。
おそらく、誰かが誤記したものがそのままネット上で使いまわされているのかもしれません。
ところで、墓碑に「SAYONARA」と記されている、ということですが、最初の墓はワシントン州のトロダにありました。
「SAYONARA」と記した墓碑はこの墓にはなかったと思います。