【85】「言霊主義」で、社会科学的説明や実証的説明を省略してはいけない。
平安・鎌倉時代は、「朝廷の無力」を批判し、幕末は「幕府の無策」を批判する、というスタンスが『日本国紀』の特徴です。
平安・鎌倉時代の「朝廷の無力」が誤った認識であることは既に説明しましたが、幕末の「幕府の無策」という理解も誤解を含んでいます。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12425467366.html
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12427337783.html
「ペリーが来航する半世紀も前から、ヨーロッパ船やアメリカ船が来航する頻度が年々高まり、開国要求も強まっている中でも、幕府は来るべき『Xデー』にまったく備えていなかったのだ。」(P226)
というのは誤解である、というのはすでに説明してきました。
「田沼時代」からすでに『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助の意見を取り入れ、蝦夷地の開発とロシアとの国交を検討していますし、幕府の「外交」は松平定信へ「政権交代」しても基本的方針は変わっていません。
1789年の国後でのアイヌの蜂起を鎮圧して以降、ロシアの南下に備え始めています。
1800年には八王子千人同心を蝦夷地に入植させ、1802年には東蝦夷を幕府直轄にしています。さらにアイヌを和人としました。レザノフの事件後は、蝦夷地をすべて直轄とし、松前奉行の指揮下に、東北諸藩に警固させています。
会津藩などは蝦夷地での銃撃訓練だけでなく、台場の建設などもしてロシアに備えています。国防強化に不可欠な沿岸の調査と地図の作成(伊能忠敬の調査)を幕府直営にし、間宮林蔵に樺太探査もさせています。
ゴローウニン事件はすでに説明した通りで、ロシアとの関係を修復したうえで、蝦夷地を松前藩に還付しています。
1811年に朝鮮通信使を江戸ではなく対馬までの派遣にさせた(易地聘礼)のは、日本近海に出没する諸外国との関係を「対等」とするために、朝鮮を「対等」とするのはおかしいと考えたからで(この話を百田氏が触れていないことに違和感をおぼえますが)、幕府は「論理的」に外交を展開してきました。
1820年代から1840年代の外交転換も、従来説明した通りで、幕府は異国船を前に、けっして「右往左往」していたわけではありません。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12433912416.html
「にもかかわらず、幕府は五十年以上、何もしなかったのだ。」(P226)
という考え方は誤りですから、その上に立つ、「何もしなかった」理由としての「言霊主義」もまた誤り(ほとんど意味不明)ということになります。
「『あってはならないこと』や『起こってほしくないこと』は、口にしたり議論したりしてはならないという無意識の心理に縛られているのである。」(P226)
という説明は、史料的には何の証明もできません。
ゴローウニン事件での、高田屋嘉兵衛による「交渉」、幕府の役人の「対応」は、すべて「あったこと」に基づいて「起こってほしくないこと」が起こったことを解決した例で、松前奉行の役人は、現場の状況を伝えて、それに対して幕府はちゃんと回答しているわけですから「議論」も行われています。
「大東亜戦争時、作戦前に参謀や将校が『失敗するかもしれない』とか『敗れた場合』ということを口にすることは許されなかった。」(P227)
という説明にいたっては、いったいどんな事件や具体的な戦いの時の話をされているのでしょう。
「是非やれと言われれば一年や二年は存分に暴れて御覧にいれます。しかし、それから先のことは、全く保障できません。」と海軍大将の山本五十六は当時首相の近衛文麿に説明していますし、軍令部第2部第3課長柳本柳作大佐は、「レーダーなどの最新装備無くアメリカと戦うことは無謀である」とミッドウェー海戦前に指摘しています。
「作戦前に参謀や将校が『失敗するかもしれない』とか『敗れた場合』ということを口にすることは許されなかった。」という具体的な例があれば示してほしかったと思います。
P228~P229にかけて「原発の例」があげられていますが、これは「言霊主義」ではなく、「責任回避論」「責任転嫁論」と言うべきです。
「原発に大規模な事故が起きる可能性があると認めた場合、原発反対派から追及されるのを恐れたためである。」(P228)と説明されていますが、原発反対派が追及するから大規模事故に対する議論ができなかったわけではありません。
十分な対策や準備をしなかったり、情報を出すのが遅かったりしたことは「言霊主義」で説明すべきことではないでしょう。
「言霊主義」による説明は、歴史的事件や戦争の原因を矮小化し、社会科学的説明や実証的説明を省略してしまうものです。