『日本国紀』読書ノート(84) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

テーマ:

84】伊能忠敬は「大日本沿海輿地全図」を完成していない。

 

緯度1度の正確な距離を知りたい、と考えたのは伊能忠敬ではなく、師匠の高橋至時でした。「寛政暦」はすでに完成し、幕府から報奨金も得ています。

実は、伊能忠敬が全国測量をおこなうに至った詳しい「動機」はわかっていないんです。

 

「二人は暦を正確なものにするためには、地球の大きさや日本各地の経度や緯度を知ることが必要だと考えた。」(P219)

 

と説明されていますが誤りが含まれています。

 

当時の水準ではすでに暦計算、日月食に地球の大きさの値は必要ありませんでした。

よって、幕府の天文方としては、緯度1度の正確な距離(つまり地球の全周)を調べることは、必要ではなかったことなんです。

なぜ、高橋至時は、「緯度1度問題」にこだわって伊能忠敬に測量させようとしたのか… 学問上の知的好奇心、としか説明がつかないんです。

幕藩体制は、地方分権国家です。江戸幕府は、幕領400万石の政府みたいなもので、日本全国は大名領に分断されていました。

測量のための移動は、私的には絶対にできません。

できるだけ長距離を移動してその距離を求める…

「地球の全周を測定したい」(学問上の知的好奇心を満たす)という「理由」では、幕府が許可を出すわけがありません。

そこで、「地図作成」という「口実」を用意したのです。

ちなみに、第五次測量まで、「経度」を調べていません(というか、当時経度を調べる技術・方法がありませんでした。地図の完成とともに提出された『日本沿海実測録』も緯度だけの測量結果を提出したものです。)

ですから、伊能忠敬はもちろん、高橋至時は「地球の大きさ」や「日本各地の経度や緯度」を知る必要があるとは考えていません。

 

伊能忠敬については、民間の「研究者」やファンが多く、いろんな話をネットにあげたり書籍を出したりしていますが不正確です。うっかりこれらから引用すると誤ってしまいます。

参考にできそうなものは、

 

『伊能忠敬』(大谷亮吉・岩波書店)

『伊能忠敬の科学的業績』(保柳睦美編・古今書院)

『伊能図に学ぶ』(東京地学協会編・朝倉書店)

「江戸幕府の天文学」(『天文教育』200811月号・嘉数次人)

 

だと思います。

 

「…ついに日本の沿海図を正確に描いた地図を完成させた。」(P220)

 

とありますが、これは誤りです。これ、よくやっちゃうんですよね。

 

「平賀源内がエレキテルを発明した。」

「伊能忠敬が日本地図を完成した。」

「吉田松陰が松下村塾をつくった。」

 

は、小学生が思い込んでいる「江戸三大誤解」です。

平賀源内はエレキテルを発明していませんし、伊能忠敬は日本地図を完成させていませんし、吉田松陰は松下村塾をつくっていません。

 

『大日本沿海輿地全図』の完成は1821年で、伊能忠敬は完成をみることなく、1818年に死去しました。

測量も、第9次測量には参加していませんし、蝦夷地の北部は弟子の間宮林蔵の実測をそのまま利用しています。

完成は、伊能忠敬より先に死去していた高橋至時の子、景保の手によってなされ、

幕府に提出されました。

 

「天文方に学んだ伊能忠敬が、幕府の命を受けて全国の沿岸を実測し、『大日本沿海輿地全図』の完成に道を開いた」(『詳説日本史B』P245・山川出版)という含みのある表現を教科書が採っているには、それなりの理由があります。

 

「異国船を前に、幕閣が右往左往している時にも、こうした民間人が日本人を支えていたのである。」(P220)

 

とありますが、幕閣は右往左往していません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12433912416.html

 

第1次測量のときから幕府は測量を許可しただけでなく、各藩に伊能忠敬の測量に協力する命令を出しています。それは、まさに相次ぐ異国船の来航から国防上の理由から沿岸地図を必要としていたからと指摘する研究者もいます(『地図の歴史・日本篇』織田武雄・講談社現代新書)。

1804年からは伊能忠敬は幕府の天文方の役人となっているので、もはや「民間人」ではありません。1805年以降は幕府直轄事業になりました。これは明らかにロシア使節レザノフの来航(1804)が背景にあり、幕府は意義と目的を理解して事業を展開させており、「異国船を前に」手をこまねいて動揺などしていません。