【90】日露和親条約で「北方四島の帰属」が決まったのではない。
「…ロシアの提督プチャーチンが下田に現れた折、安政大地震が起きた。下田の町は津波で壊滅状態となり、ロシアの黒船も壊れた。この時、ともに被災した伊豆の人々とロシアの乗組員は協力して被災者救助にあたり、その後、日本側がロシア側に帰国のための新しい船を造って寄贈しようということになった。」(P237)
「ディアナ号事件」の説明が不正確です。
以下西暦表記で説明しますと。
1854年12月3日、プゥチャーチン(現在はこう表記します)が下田に入港します。
三日後、日露和親条約の交渉が開始されました。
ところがこの交渉中の12月23日、安政・東海大地震が発生します。
ロシアの乗組員と、船医が下田の被災者救援と治療に協力し、幕府は謝意を示しました。
翌1月1日から交渉は再開されます。
一方、被災したディアナ号ですが、プゥチャーチンは幕府に修理の協力を依頼し、その結果、伊豆の戸田村で修理をすることが決まり、下田港からディアナ号は出港します。
ですから「帰国のための新しい船を造って」というのは、この段階の話ではありません。
戸田へ向かっていた航行中の1月15日、ディアナ号は強風にあって浸水し、航行不能に陥って、そこで沈没してしまいました。
プゥチャーチンは、幕府に船の建造の許可を幕府に求めます。
そこで、ロシア人の指揮・監督のもと、ディアナ号から沈没前に持ち出された設計図を用いて船が再建されることになります。
こうして伊豆の船大工が集められ、日本の木材・塗料を用いて帆船が建造されることになりました。
江戸太郎左衛門(英龍)は、ヨーロッパの帆船技術を学べる絶好の機会と考えて、技術の習得をおこないました。
さて、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが。
「当時、伊豆の代官だった江川太郎左衛門は、長崎で海防を学び、後に江戸湾に国防のための洋式砲台(現在のお台場)を設置した先進的な人物だった。彼は幕府にかけあい、腕利きの職人や資材を伊豆に集めた。」(P237~P238)
当時、江川英龍は、勘定吟味役で海防掛でした。幕府にかけあったのではなく、幕府から命じられて、勘定奉行川路聖謨とともにロシア船の建造に協力することになります。
建造の協力の経緯なのですが…
日本が資材と作業員(船大工)を提供し、その代償として完成した船はロシアに帰国後、日本に譲渡する、という「契約」でした。
「帰国のための新しい船を造って寄贈しようとなった。」(P237)という話ではありません。むしろ話は逆で、「造ることを協力してくれたら、帰国後、日本に寄贈する」、というような話なんです。
「この後に行なわれた日露の交渉によって、北方四島は日本の領土と定められたのだ。」(P238)
これは重大な誤りを含んでいると思います。
まず、先に小さい部分から説明しますと。
ヘダ号の建造後に日露の交渉が行われたのではありません。
ディアナ号が沈没する前に交渉は再開されており、代船(ヘダ号)の建造中の2月7日に日露和親条約は締結されています。
ヘダ号が完成したのは4月26日です。
それからこれが重大な誤りなのですが。
日露の交渉で北方四島が日本の領土と定められたのではありません。
国後・択捉・歯舞・色丹は、すでに日本の領土でした。
日露の国境が、択捉島と得撫島の間である、と日露和親条約で定められただけです。
「北方四島の帰属を決めた」(P238)のではなく、「日露の国境を画定した」の誤りです。
「日露の交渉」で「北方四島の帰属を決めた」、なんて話が日本側の認識である、と思われたならば、誤ったメッセージをロシアに伝えることになります。
日露の交渉の「前」から「北方四島は日本のもの」であったがゆえに、択捉と得撫の間に国境線が引けたのです。
ロシアが『日本国紀』を手にとって、「何十万部も売れているのだから日本人の多くの認識はこういうことだろう。この本に、こう書いてある。安倍首相も読んでいるし、北方四島は1855年の日露の交渉で決まったものだ。」なんて主張されたらたいへんです。
ロシアは無関係で、「日本はロシアより早く、北方四島(択捉島・国後島・色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。1855年、日本とロシアとの間で、全く平和的・友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。」(外務省HP・「北方領土問題とは?」より)
P237~P238のコラムで安倍晋三首相とプーチン大統領の話が出てきています。
安倍首相は、「ヘダ号の絵」を通じて日ロ友好・協力に思いを馳せようというメッセージを込められたことは確かでしょうが、「北方四島の帰属を決めた歴史に思いを馳せよう」というメッセージを込められているはずがありません。
何度も申しますが、「北方四島」は1855年以前から日本の固有の領土です。日露の交渉で決まったのは「択捉とウルップ島の間が国境である」ということだけです。
もう何十万部も日本中に出回ってしまっています。
多くの読者が「北方四島の帰属が日露の交渉で決まった」「日露の交渉によって、北方四島は日本の領土と定められたのだ」と誤って理解しないように一刻も早く訂正してほしい部分です。