【78】江戸幕府と朝廷の関係の説明がほとんどない。
江戸時代の説明で、百田氏がほとんど触れていないのが「朝廷と幕府」の関係です。
「江戸時代においては政治の表舞台にまったく登場しなかった『天皇』だが、祭祀を司るだけの存在だけでなかった。」(P230)
という表現にそのことはよくあらわれていると思います。
江戸時代を通じて、漸進的に朝廷の権威は高まり、幕府も朝廷も相互に利用しながら、(朝廷はある意味したたかにふるまい)、朝廷は幕府の政治に影響を与えました。
その流れの中で、朝廷の中に幕府・反幕府の派閥が生まれ、尊王攘夷思想が朝廷の中に一定の「信奉者」を生みます。
前から言うように、通史は「ネタフリ」が大切です。
「海の向こうから『夷狄』が現れ、日本が未曾有の危機を迎えた時」、突如「『天皇』の偉大さ」を知ることになったわけではないのです。
まず、幕府による統制ですが、実はそのルーツは鎌倉幕府にあります。
頼朝の時代から貴族が「関東申次」という役割を与えられ、関東-朝廷の連絡役のようなものでした。窓口が一本化されることになり、後に西園寺家が世襲することになります。
関東申次は、摂家以外の新しい「権威」をつくることになり、摂家にしては気に入らない存在で、朝廷内の対立のもとになりました。
江戸幕府が、鎌倉幕府とは比較にならないくらいの力関係で朝廷に対して優位となったとき、今度は摂家が主導権を握ろうとして幕府に近づきます。
変な話なのですが、ほんとのところ、幕府は、朝廷をあんまり「統制」していないみたいなんです。統制を関白・三公にまかせているようなんですよね。
「徳川幕府は、朝廷には『禁中並公家諸法度』を定めて管理した。」(P167)
と説明されていますが、『禁中並公家諸法度』を読めばわかりますが、なんというか「服務規程」みたいな感じで…
その点、十七条憲法的で、摂家が朝廷を運用する「手引き書」みたいな感じです。実際、17ヵ条ですし…
ですから、最近の教科書は、そのあたりをくみ取って
「摂家がなる関白・三公に朝廷統制の主導権を持たせ…」
「禁中並公家諸法度を制定し、朝廷運営の基準を明示した。」
という表現に変わっているんです。
「長らく特権階級だった公家まで『法度』という法律をもって管理下に置いた支配者は家康が初めてだった。」(P167)
という百田氏の説明を読んだとき、ああ、やっぱり昔の考え方の説明だな、と感じたのはこのためです。
さて、幕府と朝廷の関係で抜けている話は以下のものです。
①「綱吉の時代」
霊元天皇の強い要請で、大嘗会は221年ぶりに、賀茂葵祭が192年ぶりに再興されています。その他の儀式もたくさんこの綱吉の時代に復興されました。
これは以前にもお話ししましたので、改めてご確認ください。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12422849155.html
朝廷の儀式は、多くが中断され、また再興され、としているものです。
にもかかわらず、新嘗祭が「アメリカ占領軍の政策により、宮中祭祀・国事行為から切り離され、『勤労感謝の日』という意味の異なる名称に変えられ、古代からの歴史のつながりを断たれてしまった。」(P15)と説明されています。
別に古代からの歴史のつながりを断ったのは、「アメリカ占領軍の政策」ではありません。
また、12章のお話でも詳しく説明しますが、GHQの担当民政官・軍人の回顧録や史料は豊富にあり、情報公開も進んでいます。GHQ関係者のほとんどは、独立後は憲法も改正し、再軍備にも着手すると「予測」していたことがわかります。百田氏が「憎悪」するほどのことは何もなく、GHQは「独立後の日本」に関してはむしろ無関心でした。
さて、綱吉の復古的な朝廷政策で、「勅使下向」の儀式もいっそう重視されました。(その中で「赤穂事件」が起こっています。)
朝廷の権威を高めて(幕府がそれを利用して)、その朝廷から政治の大権を委ねられた幕府の支配は正統なものである、という後の思想の萌芽を綱吉の政策が準備しました。
また、このころ、水戸家が朝廷との取次のような役目もしていること,水戸光圀による『大日本史』の編纂を開始したこと、などから「尊王」重視する水戸家の風も生まれることになります。
②「正徳の治」
新井白石は、将軍個人の人格よりも「将軍職」の地位とその権威を高めるために、将軍家継と2歳の皇女との婚約をまとめています。
また、すでに説明したように、閑院宮家を創設し、天皇家との結びつきを強めています。2代秀忠の娘が後水尾天皇に入内し、生まれた娘が明正天皇となっていることとあわせて、ここにも幕末の「公武合体」のモデルが先取りされています。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432167050.html
③「田沼時代」
1758年、「宝暦事件」が起こっています。
これは国学者の竹内式部が京都で公家たちに「尊王論」を説いた事件ですが、背景に、幕府から朝廷の政治をまかされていた摂家(関白・三公)に対する他家、若手貴族たちの不満がありました。
将軍家重から将軍職を取り上げる倒画も進行します。これに対して関白一条道香が事態を収拾し、京都所司代に訴えて関係公卿を処罰、幕府は竹内式部を追放しました。
さらに1767年には「明和事件」も起こります。
山県大弐が「尊王斥覇」を説いて幕府の腐敗を批判して謀反を企てた事件です。
これらから、将軍が天皇の委任によって政権を預かっている、という考え方が定着し、朝廷を尊ぶことによって幕府の権威を守ろうとする考え方が広まります。
この前提があるからこそ、幕末の「大政奉還」という考え方が成立するんです。
また、1779年、後桃園天皇が急死する事件が起こりますが、閑院宮家から天皇が迎えられ(光格天皇)、皇統の断絶の危機も回避されました。
④「寛政の改革」
1789年、朝廷の問題が幕府の政治に大きな影響を与えることになります。
光格天皇は、閑院宮家から天皇として迎えられましたが、実父は健在でした。ややこしい話ですが、父は閑院宮典仁親王で、父でありながらも「親王」であるため、朝儀なとでは臣下の関白・三公より格下に扱われてしまいます。
この「ねじれ」を解消しようと、天皇は典仁親王に「太上天皇」の称号を宣下したい、と、幕府に同意を求めました。
ところが話がややこしいことになりました。
老中松平定信は、これを拒否するんです。理由は朱子学における先例主義で、「皇位になかった者が太上天皇の称号を得たことはない」と…
でも、そんな例が無いわけではなかったんですよね。なにしろ定信の父、田安宗武は国学・歴史学にも精通していた人物ですから定信も知らないわけではありませんでした。
ややこしい、というのはここからで、実は、将軍家斉も一橋家から養子になる、という形で将軍となっていました。で、父の一橋治済は健在。将軍の父でありながら、御三卿なので、臣下の親藩尾張・紀伊よりも格下になってしまう…
そこで「大御所」の尊号を贈ろうとしていたんです。
しかし、定信にとって一橋治済は、かつて自分を田安家から白河藩へ異動させて将軍になれないようにした政敵でした。
「大御所」の尊号を拒否して「太上天皇」の尊号を認めるわけにはいかないし、「太上天皇」の尊号を認めたら「大御所」の尊号も認めなくてはならなくなる…
このため、両方、認めない、ということを強行しました。
これで松平定信と将軍徳川家斉の対立が深まり、松平定信が引退することになったのです。
田沼意次のように「失脚」ならば、チーム田沼が解散されたのと同じように、チーム定信も解散されたはずですが、定信一人の辞任でチームはそのまま温存され、25年間、改革は続けられました。ですから、定信の場合は「失脚」とはいえず、教科書では「田沼は失脚」、「定信は辞任」と明確に説明を変えているのです。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432842435.html