『日本国紀』読書ノート(番外編11) | こはにわ歴史堂のブログ

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北方領土や、ロシア(後のソ連も含めて)に関する『日本国紀』の説明に少し違和感をおぼえています。

また、後ほど詳しく説明したいとは思うのですが…

とりあえず江戸時代について。

 

「…十四年後の寛政四年(一七九二)、ロシア遣日使節が根室にやってきて、再び通商を求めると、幕府は長崎への入港の許可書を退去させる。」(P214)

 

この時来航したラクスマンのことはまったく触れられていません。

むろん百田氏の自由なのですが、人物の歴史を軸に語られる通史としての特色を持つ『日本国紀』にしては不思議なところです。

でも、それにしてもあまりにも色々な情報を省略しすぎです。

ラクスマンは、ロシア皇帝エカチェリーナ2世から派遣され、漂流民の大黒屋光太夫を届けてくれました。大黒屋光太夫からの聞き取りで、いろいろな情報を幕府は得ました。

彼はロシアに滞在し、エカチェリーナ2世とも謁見しています。帰国後は、桂川甫周や大槻玄沢と交流し、蘭学の発展にも寄与しましたし、何より桂川は光太夫からのロシアでの生活・見聞を聴取し、『北槎聞略』をまとめています。

幕府は光太夫からの情報を得て、樺太・千島の「防衛」を企図するようになります。

このころロシアは択捉島に入り、現地のアイヌとの交易を始めていました。

幕府は1798年、近藤重蔵・最上徳内に択捉島探査をさせ、「大日本恵登呂府」の標柱を立てさせ、択捉・得撫間をロシアとの境界とする構想を立てています。

すでに江戸時代から択捉島は日本の領土であったことを示す根拠なのに、なぜかこの話も『日本国紀』からは抜けています。

1800年には八王子千人同心100人を蝦夷地に入植させ、1802年には東蝦夷を幕府直轄にし、さらには居住しているアイヌを「和人」とする同化政策を開始しました。

日本の風俗を強制し、首長を「名主」としていきます。

『日本国紀』は、一貫して琉球やアイヌの話が希薄な印象を受けます。

 

さらに、1804年のロシア使節レザノフも紹介されていません。

 

「十二年後の文化元年(一八〇四)、ロシアは長崎に来航して通商を求めるが、幕府は半年以上も回答を引き延ばした末、翌年、拒否する。これに怒ったロシアは樺太や択捉島で略奪や放火を行なった。そのため、幕府はそれまでのロシアの漂着船には水や食料を支給して速やかに帰らせる『ロシア船撫恤令』を出していたが、この事件以降、蝦夷地を直轄地とし、東北諸藩に出兵を命じ、蝦夷地沿岸の警備を強化するとともに、文化四年(一八〇七)、『ロシア船打払令』を出す。」(P214)

 

1804年に長崎に来航したのは、ロシア使節レザノフです。

長崎では、ラクスマンに手渡した許可書を持っての来航であるし、礼節をもって遇するべし、と考えていましたが、当時の老中土井利厚が強硬派で、結局はレザノフを長く軟禁したうえ、帰らせています。

(ちなみに、このときの長崎奉行は、遠山景晋。「遠山の金さん」で知られる後の江戸町奉行遠山景元のパパです。レザノフを取り調べた役人の一人が大田南畝でした。)

1805年に「文化の薪水給与令」を出します。これが「ロシア撫恤令」と百田氏がおっしゃられているものです。

レザノフは武力で開国させるしかないという判断をしたようで、部下に対してその話をしています。ここで、齟齬が生じました。レザノフはカムチャッカにもどった後、アラスカからカリフォルニア(当時スペイン領)にまでいき、交易を模索しています。

レザノフの「武力開国」提案は本国から拒否され、レザノフが撤回したにもかかわらず、その命令がまだ生きていると「誤解」した部下のフヴォストフが単独で、蝦夷地を攻撃する行動に出てしまいました。

日本側の記録では年号をとって「文化露寇」として残っている事件(1806)です。

樺太の松前藩の居住地を襲撃し、さらには択捉島に駐屯していた幕府軍にも攻撃をしかけてきました。

これを受けて、1807年、幕府は蝦夷地を直轄地にし、松前奉行の支配下に置き、同年、前年の撫恤令を改めて、ロシアは打ち払うように老中から大目付に文書を発給しています。これが百田氏のおっしゃっている「ロシア打払令」です。

当時、ヨーロッパではナポレオンの台頭で、ロシアは極東情勢にかまっていられない時でした。なんと皇帝がこの事件に不快感を示し、1808年、ロシア軍の撤退命令を出し、一時的な両国の緊張は回避されました。

 

なぜ1800年代の日露の関係の中で、北方領土が日本固有の領土である、という話のネタフリをされなかったのか、不思議です。百田氏は現行教科書にはずいぶんと批判的な説明をされているのですが、現行教科書には「北方領土」が日本固有の領土であるネタフリは随所に出てきます。コラムなどで日露和親条約の話(P237~P238)は出てきますが、1800年代の幕府、近藤重蔵や最上徳内、間宮林蔵などの活躍が北方四島の帰属をはっきりさせたのです。

 

それから、日ソ中立条約を破ってソ連が参戦した話が、あまりに希薄です。アメリカに対してはハーグ条約違反を詳細に説明して批判し、空襲・原爆などをふまえて「悪魔のごとき」とまで批判的論調で書かれているのですが、それに比べて、北方四島不法占拠については、説明があまりに希薄です。

 

「二発目の原爆が落とされた八月九日、ソ連が『日ソ中立条約』を破って参戦した。」(P403)

 

という1行のみ。(ちなみにソ連侵攻の後、長崎に原爆が投下されています。ソ連侵攻が先で原爆投下が後なので念のため。)

ポツダム宣言受諾後もソ連と日本軍が北方領土で戦っているのですが、その話も詳しく説明してほしかったところです。

それにしても、「北方領土」の話があまり出てこないのが不思議な感じです。

 

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