『日本国紀』の特徴の一つに、「世界史」および世界との関係の歴史が浅薄である、あるいは誤りが散見できる、ということです。
『日本国紀』が「日本の歴史」とはいえ、近現代はとくに「世界史の中の日本」そのものですから、世界史の知識が無いと、すべての説明の信頼性が低下します。
(2020年の大学入試改革はもちろん、日本史と世界史の横断的な学習がこれからの歴史教育の中で重要な意味を持つようになりました。)
さて、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが。
「ヨーロッパ諸国はすべて君主制だったので、フランスの市民革命が自国に広がるのを抑えようと、革命政府をつぶしにかかったが、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がそれらの国を打ち破った。」(P212)
まず、当時のヨーロッパ諸国はすべて君主制ではありません。
それからナポレオンが「革命政府をつぶしにかかった」国を打ちやぶった、とありますが、イタリア軍派遣司令官としてオーストリア軍を破ったのは1796年です。
それまでは、パリの民衆と全国から集まった義勇兵が革命政府を守って戦い、ヴァルミーの戦いでプロイセン軍を撃退しました。
(ちなみに、最初にオーストリアに宣戦布告したのはジロンド派のフランス革命政府のほうで、オーストリア皇帝は革命の拡大というよりも、「ピルニッツ宣言」からわかるように最初は妹マリ=アントワネットと夫ルイ16世を救う、という意図のほうが強かったのです。)
革命の拡大を危惧したのはイギリスで、ルイ16世の処刑とフランス軍のベルギー侵攻を受けて、首相ピットが1793年、第1回対仏大同盟を結びました。
その後、革命政権を主導していたロベスピエールを中心とするジャコバン派がクーデタにより失脚し、穏健な共和政府(総裁政府)が成立しました。この中でオーストリア軍を破ったナポレオンが名声を得て、さらに敵国イギリスとインドの連絡を絶ってイギリスに打撃を与えるためにエジプト遠征をおこないます。
これに対抗して、イギリスが第2回対仏大同盟を結びました。
「ナポレオンは、一時は西ヨーロッパの大半を支配し、フランス皇帝の座に就いた。」(P212)
これは誤りです。
ナポレオンは1799年、クーデタで政権を握った後、1802年にイギリスと和解しています。そして国内諸政策を充実させて後、国民投票によって1804年に皇帝に選ばれました。
これに対して翌年、第3回対仏大同盟が結成され、三度イギリスとの対立が深まります。ネルソン提督率いるイギリス海軍がフランス海軍をトラファルガーの海戦で破り、ナポレオンのイギリス本土上陸は阻止されました。
しかし、陸上での戦争では、ナポレオンは有利に戦いを進めます。1805年、アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を破り、1806年、フランスの保護下に南西ドイツ諸国を併せてライン同盟を結成させます。これにより10世紀以来の神聖ローマ帝国は滅亡し、翌年、苦戦の後、プロイセン・ロシアの連合軍を破ってティルジット条約を結び、ポーランドにワルシャワ大公国を建てます。
ナポレオンは、自分の兄弟をスペイン王・オランダ王につけています。
西ヨーロッパの大半を支配してから皇帝となったのではなく、皇帝になった後、戦いを続けて西ヨーロッパの大半を支配したのです。
1800年代、こうしてオランダはフランスの傘下に入ることになります。国王はナポレオンの兄弟ですからね。よって、イギリスにとってはオランダも敵国になります。
しかし、これはイギリスにとっては海外での植民地拡大の口実に利用できました。
つまりオランダに宣戦布告することでオランダの海外植民地を奪うことができるからです。
これが背景となって、P214~215にかけての説明にある「フェートン号事件」につながるのです。
「イギリスの軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、同国人と思って出迎えたオランダ商館員を拉致した事件である。」(P214~P215)
とありますが、なぜイギリスがこんな事件を起こしたのか、なぜイギリスが東南アジアや東アジアに19世紀に進出してきたかの背景が、これだけではサッパリ伝わりません。せっかくナポレオンの話をしているのだから、こんなに細かく説明しなくても、
「ヨーロッパを征服し、スペインやオランダを支配した。」とネタフリしておけば、「フェートン号事件」でオチをつけられたのに残念です。
(大学入試でも、フェートン号事件が起こった国際的な背景を説明せよ、という問題があります。)
フェートン号はナポレオン戦争中でしたので、オランダの船を拿捕しようと長崎に来ました。そして長崎港に停泊している船にオランダ船がいないか「捜索」もします。
「十六日、イギリス側は人質を一人解放し…」とありますが、長崎奉行松平康英は、時間をかせぐために、今用意できるのはこれだけだ、と、わざと少しの水しか与えず、
翌日にたくさんの水・食料を渡すとして人質一人を解放することに成功します。
なかなか有能な官吏で、ネゴシエーターとしての才能があったようです。
以下は蛇足ながら。
細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なんですが。
「十七日未明に大村藩から兵隊が長崎に駆けつけたが、フェートン号はすでに去った後だった。」(P215)
と、ありますが不正確です。大村藩は藩主自ら兵を率いて駆け付け、松平康秀らと「反撃」の準備をしていたのですが、その間にフェートン号は出港してしまったのです。大村藩が駆け付けた後、フェートン号が去ってしまったのです。