『日本国紀』読書ノート(77) | こはにわ歴史堂のブログ

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77】定信が失脚しても25年間は「寛政の改革」が続いていた。

 

「定信が失脚した後は、将軍家斉も贅沢三昧な生活を送り、社会も再び活性化する。」(P211)

 

と説明されていますが、誤っています。

家斉が将軍在位50年のうち、1787年から1793年の六年間、松平定信が老中をしていましたが、その後、1818年までは、「寛政の改革」のスタッフがそのまま残留し、老中松平信明が松平定信の政策を引き継いで政治をしていました。

これ、よく受験生でも誤解するんですよね。

 

1818年から、つまり「文政年間」に入って、老中が水野忠成に代わってから品位の劣る貨幣を大量に流通させ、例によって「出目」を稼ぐ通貨政策をとりました。

加えて、「寛政の改革」の本百姓体制再編の効果が10年間で表面化し、連続して豊作となります。

このため、幕府は約550万両もの利益あげたのです。

 

「化政文化」を生む背景には、「寛政の改革」の地道な成果もありました。

物価が高くなっても、江戸を中心とする町人文化が栄えたのは、七分積金や町会所などの福祉政策によって「将来の不安」や「日々の不安」が解消されて庶民の間に「消費への活力」が生まれていたからです。

前にも申しましたように、通史は「ネタフリ」があって「オチ」に続くのです。

寛政の改革での農村政策と都市政策をちゃんと説明していたならば、文化文政期の景気回復の話に繋がったのに残念です。

 

定信が失脚した後も、寛政の改革は25年間続いていました。

家斉は、松平定信と対立しましたが、その改革まで否定したのではなかったのです。

政治・経済とは別の対立でした。

これが、また百田氏が江戸時代を通じて、すっかり抜かしてしまっていることと深く関係しているんです。

 

「定信の理想主義は現実とは乖離したもので、将軍家斉との対立もあって、寛政五年(一七九三)に失脚し、改革は六年ほどで終わった。」(P209)

 

と説明されていますが、定信の政策はすでにお話ししたように現実とは乖離もしておらず、「改革が六年ほどで終わった」のでもなく、松平定信の老中在任が六年ほどで終わっただけで、改革は1818年まで続いているのです。(しかも松平定信は「失脚」ではない。)

 

そして百田氏が抜かしてしまっている「家斉との対立」についてなのですが、これはまた次回にじっくり説明させていただきたいと思います。

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