『日本国紀』読書ノート(76) | こはにわ歴史堂のブログ

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76】「寛政の改革」があまりに一面的な説明である。

 

まず、読者が誤解を招かないように説明すると、松平定信は将軍家斉の時代の老中ですが、この百田氏の説明だと、将軍家斉の「逸話」から入ってしまうので、家斉が浪費し、「…多額の出費をしたために、財政が苦しくなった。」ので松平定信が改革を始めたように思われてしまいかねません。

田沼意次の政治が失敗し、家治が死去して、家斉が年少で将軍となり、松平定信が老中に任じられました。家斉の「多額の出費」や「膃肭臍将軍」の逸話は定信の引退後ですから念のため。

 

さて、「寛政の改革」の半分の話も記されていません。

それから、「評価」も一面的です。

 

「理想主義者で潔癖症の定信」「定信の理想主義は現実とは乖離したもので…」(P209)

 

理想主義の定義が難しいところですが、視点を変えれば、田沼意次のほうが、成長してきた前期資本主義、商業の発達をふまえて、それまでとは違う改革に着手したと考えられるので「理想主義」ともいえます。

「潔癖症」という比喩も、あまり適切とはいえません。

 

「現実とは乖離したもので」というのはかなり無理があります。

百田氏が、松平定信の改革を十分説明していない(現実的な政策の説明をしていない)だけです。

 

そもそも田沼派の失脚は、当時の杉田玄白がその理由を明確に記しています。

 

「もし今度の騒動なくば御政事改まるまじなど申す人も侍り」(『後見草』)

 

つまり1787年5月に起こった「天明江戸打ちこわし」にはじまり、全国に広がった打ちこわし、一揆が契機となって田沼意次一派が失脚したのです。

かつてない凶作・飢饉、全国的な一揆・打ちこわしが示す幕藩体制の弱体化、これらをどのようにして打開するのか、が、「寛政の改革」の目的です。(『松平定信』藤田覚・中公新書)

 

幕藩体制の基盤は、村落共同体の小農経営、いわゆる本百姓体制です。

くずれつつある町と村の再建が寛政の改革の第一の目的です。

しかし、百田氏はこれを無視して「寛政の改革」を説明しています。

高校の教科書にも説明されている「囲米」「七分積み金」「人足寄場」などの説明が一切ありません。

 

「経済中心の田沼意次の政治を憎み、祖父の吉宗が行なった米と農業を基本とした政治を目指し、様々な改革を行なった。」(P209)

 

これは1970年代の説明でよくみられました。

昔の「まんが日本の歴史」の一場面を思い出します。「老中の理想の政治は?」と問われて「吉宗さまの政治だ。」というセリフを吐く定信…

 

「享保の改革」では倹約を中心とする財政支出を抑える政策と定免法の採用による年貢増徴策がとられましたが、「寛政の改革」では年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力が注がれたのです(『近世の三大改革』藤田覚・「日本史リブレット」山川出版)

吉宗を理想とする、と、言いながら、改革の内容はかなり違います。

 

 農村救済には公金貸付を大規模に実施し、「間引き」などによる人口減少を食い止めるために、小児養育金を支給しています(15万両を拠出)

商品作物も、別に禁止したわけではなく、むしろ換金性の高い綿花・菜種の生産にしぼらせています(商人の都合で様々な商品作物を栽培させられ、安く買いたたかれていたので)

 

商業政策も、株仲間を抑制しましたが、これは天明の飢饉の際に商人らが米の買い占めや隠匿をし、本来の目的であった物価の抑制や商業の統制の機能を果たさなかったからです。

松平定信は江戸の両替商らを「勘定所御用達」に登用し、かれらの資金と経験を活用して、なんと物価の調節にあたらせているんです。

松平定信の政策は、農業だけを重視した保守的・復古的である、というのはイメージにすぎません。

 

凶作が起こると飢饉となる、すると米価が高騰して一揆や打ちこわしとなる…

松平定信の改革はこの流れを断ち切ることでした。

飢饉対策として、大名1万石につき50石の米を備蓄させ、江戸の町の対策としては「七分積金」と町会所の囲米をおこなわせています。

ここでは倹約令に実効性を持たせました。

町の運営費を節約し、節約してできた余剰の70%を積金にさせます。町会所は、この資金で困窮者への低利融資、病人や高齢者の救済をおこないました。

現在でいうところの社会福祉・保険制度のようなものです。

実際に天保の飢饉のとき、江戸では打ちこわしが起こらなかったのはこの制度のためです。

理想主義どころか現実的対応をし、さらに結果を出す改革をしています。

 

「前述のように昌平坂学問所では蘭学も廃止されていたため、幕府はヨーロッパ諸国の情勢に疎くなった。」(P209)

 

昌平坂学問所は、もともとは林家の儒学の私塾で孔子廟を設けていました。5代綱吉が湯島に移築させて講堂・学寮を整備したものが前身です。

さて、もうこのルーツからおわかりだと思いますが、「蘭学」は、廃止するも何も、昌平坂学問所とは無関係です。よくわからない説明です。

 

「『海国兵談』で国防の危機を説いた林子平を処罰した。田沼意次がやろうとした蝦夷地開拓やロシアとの貿易計画も中止した。」(P209)

 

と説明されていますが、1792年にはロシアの使節ラクスマンが根室に来航していて、松平定信はこれに対応した政策をとっています。

実は、これより先の1789年、国後島のアイヌの蜂起があり、幕府はアイヌとロシアの連携を危惧しています。

「海外の情勢に疎くなった」と説明されていますが、ロシアと蝦夷地に関しては、かなり関心を高めています。これを背景に江戸湾だけでなく蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じました。

 

百田氏の説明は内政・経済・外交いずれも不十分で、「定信の理想主義は現実とは乖離したもので」と断言できないものだと思います。

 

【参考】

『体系日本国家史3』「幕藩制改革の展開と階級闘争」難波信雄・東京大学出版会

『岩波講座日本歴史近世4』「寛政改革」竹内誠

『松平定信』藤田覚・中公新書

『寛政改革の都市政策』安藤優一郎・校倉書房

『幕藩制改革の展開』藤田覚編・山川出版社