私が、あれ?て、思ったのは笠谷和比古氏の『主君「押込」の構造』を初めて読んだときでした。
ひょっとして、尾張徳川宗春って、「押込」だったんじゃないかな…
と思うようになったんです。
戦前から、よく吉宗と宗春は「対比」され、経済政策を取り上げて説明されているんです。
しかも、当時のそれぞれの政権の「経済政策」をけなしたり、持ち上げたりするのに使われ続けてきているんです。
戦前は、海音寺潮五郎。ズバリ『吉宗と宗春』。
すいません、確か本棚にあったと思ったのですが、見つからなくてうろおぼえなので正確な引用ではないんですが、海音寺は、宗春に、「倹約倹約って言っていたら、町人も農民も職人も商人もみんな困る。」「みんなが着るもの倹約すれば、蚕を飼い、麻を紡ぐ農民が困り、織屋の仕事がなくなる。」みたいなセリフを吐かせています。
宗春の『温知政要』で書かれていることに基づいたセリフであることはハッキリしていますよね。
これ、高橋是清も当時よく似たことを言っているんですよ。
「芸者を呼んでごちそう食べて騒いだとしたら、道徳的にはどうかと思うが料理代金は料理人の給料になるし、料理に使われる肉や魚や野菜を作る人の懐が潤って、それを運ぶ人たちの仕事も増える…」
財政出動による景気回復政策を進める時代の空気を『吉宗と宗春』に反映されていると思うんです。(経済評論家の三橋貴明さんは、このあたりをもっと上手く説明されていました。)
80年代、90年代、それぞれの政府の方針に阿ったり批判したりするときに、吉宗・宗春が対比的に使用されてきました。
百田氏が、荻原重秀がケインズを先どっている、とか、金融緩和だとか、宗春の政策を持ち上げて、吉宗を批判して、元文の改鋳したら景気がよくなった、なんて書いているのをみて、「ああ、またコレね…」と思いました。
どんどん歴史上の人物がゆがめられて、誤った人物像が再生産されていく…
さて、最初の「押込」の話です。
「押込」というのは、君主が暗愚で不行跡の場合、家臣がまず諫言をし、改められない場合は、君主を強引に隠居させる、というものです。
寛文事件の伊達綱宗なども幕府と連携した伊達家の家臣たちにより「押込」されて隠居させられています。
尾張宗春は、ほんとに吉宗と政策上の対立を起こして隠居させられたのでしょうか…
まず、「宗春の政策」は、ほんとうにうまくいっていたのでしょうか。
宗春の前代は、継友のとき(1728年)の尾張藩の財政の記録が残っているのですが…
米二万八千石余
金一万三千両余
これだけの「黒字」がありました。ところが、宗春が藩主になってからの1737年の記録では、
米三万六千石余
金七万四千両余
の「赤字」に転じていました。
え?? こ、これ、赤字にしてもひどすぎませんか?
名古屋の人々には大うけしていた宗春。でも、これ、単なる浪費家だったんじゃないの?と思わざるをえません。
それだけではないんです。
財政再建のために彼がおこなった政策は、町人からの借金でした。
1737年6月 四千両
12月 一万両
1738年8月 一万五千両
二年で二万九千両の借上金を商人たちに賦課しているんです。
『徳川吉宗』(大石学・「日本史リブレット」山川出版)
家臣たちもこれはヤバいと考え始めました(この人の政策、ほんとに褒めてよいのか?)。
経済問題だけではありません。朝廷と幕府の関係が享保の改革の後半から対立していくようになるんです。
原因は、なんと水戸光圀の編纂事業『大日本史』です。
これ、「南朝を正統な王朝」として書かれているんですよね。理由は簡単です。徳川家は、姓は源氏ですが、祖を南朝の中心新田氏と称していたからです。
当時の天皇家で実権を握っていた霊元法皇は、有職故実・歴史の学者級の人物で、もちろん今の天皇家は北朝系。『大日本史』の発行なんか認めません。
で、尾張家はこのときの朝廷と実に緊密な関係で、宗春の姪の子二人は九条家と二条家に嫁いでいて、このツテを利用し、朝廷は宗春を通じて『大日本史』を回収させようとしているんですよね…
このころ、幕府の老中は松平乗邑。
実は、吉宗の将軍専制という政治は、1730年代に入って陰りをみせます。
「米価安の諸色高」といって米価は低くなって物価は高くなる、享保の飢饉も起こる、という状況になってきました。それまで側近はすべて紀州藩出身で固められていたのですが、これに対する譜代衆の不満も高くなり、その流れの中で譜代大名の松平乗邑が勝手掛老中(財政担当老中)に任命され(1737年)、いわば吉宗の経済失政の挽回を図るために強力な増収政策を進めるようになりました。
享保の改革も前半と後半で評価を変えるべきなんですよね。
このときに勘定奉行となったのが「百姓はゴマの油と同じ」という発言をしたといわれる神尾春央です。「公事方御定書」などもこの時期に編纂されています。
『徳川実紀』にも、松平乗邑が将軍の言うことを聞かないくらいに強引に政策を進めていた、というような記載があるくらいで、後半の改革は乗邑を中心に進められていたと考えられます。
1739年、不思議な出来事が記録されています。新年の行事を吉宗がすべて代理を立てて一カ月近く奥に籠っていた、というんです。
さて、尾張藩ですが、朝廷と幕府の対立で尾張藩が危険視されるようになる、財政は破綻状態… このままではたいへんなことになる… と家老たちは考えました。家老たちも一枚岩でなく、宗春派の成瀬家と、竹腰家の対立も背景にありました。
尾張藩付家老竹腰正武の弟は、実は江戸の北町奉行の石河政朝。このコネを利用して竹腰は老中松平乗邑に接近し、成瀬抜きで宗春失脚が計画されていきます。
松平乗邑が1738年、尾張藩の家老たちに、宗春を諫めるように指示したことが『徳川実紀』に記されています。
これ、「押込」の手続きが始まっていたのではないでしょうか。
そして1738年6月、宗春が江戸に滞在している間、尾張では「藩の政治をすべて継友時代に戻す」という命令が出されました。竹腰派家老たちのクーデターです。
1739年1月(なぜか吉宗が奥に籠っているタイミングで)、江戸城に尾張藩の重臣が呼び出され、「宗春蟄居・謹慎」が吉宗の命として松平乗邑が申し渡しています。
宗春失脚は、吉宗との対立、というよりも、財政破綻・朝廷問題から危機感を感じた家老たちによるクーデター、という側面のほうが強かったような気がします。
それが後の政治家や現代の経済アナリストたちによって、「経済政策対比」に利用され、過大に宗春が評価されてしまい、「吉宗と宗春」をアナロジーとして政治経済が語られるようになった気がします。