【74】現代社会と江戸時代の経済を同じように考えてはいけない。
以前に、ビジネスジャーナルさんから書評の依頼を受けたときに、「通史の方法」を五つ紹介しました。
https://biz-journal.jp/2018/12/post_25730.html
歴史「を」説明する
歴史「で」何か「を」説明する。
経済アナリストや経営者のみなさんは、後者の手法で日本の経済を説明しようとされます。
歴史をアナロジーとして経済を説明する…
なにも悪いことではないのですが、江戸時代って、現在と根本的に「経済」が違いますし、そこでの経済手法を、「現在で言うなら××」というのはちょっと無理があるんです。
私も授業では、「わかりやすく」説明しようとして「今で言うならば…」とやってしまうのですが、いつも慎重に説明するようにしています。
幕府の貨幣改鋳は、やっぱり単純に「出目」を稼ぐのがねらいでした。
つまり「目的」と「効果」は別、と考えないといけないと思うんです。
「出目」をかせぐ「目的」で金の含有量・率を減らしたら、インフレという「効果」があった、ということだったと思います。
1840年、幕府の歳入にしめた「出目」の利益は20%を占めています。これ、幕府にとってはオイシイ政策だったんです。
江戸時代の経済の基本は「米づかい」で、これを現金化する、というものでした。
「すでに近代的な経済になりつつあった商取引から税を聴取するというアイデアが浮かばなかったのは不思議だが、この点は幕府も同じであった。」(P204)
「近代的な経済になりつつあった」と言ってよかったのでしょうか…
いくら商人が儲けている、といっても尾張藩の場合、彼らがあげている利益に課税して得られるものは限られていました。当時の世界に現代的な感覚は持ち込めません。
(ちなみに、商人に税がかけられていなかったわけではありません。地子税、という税はかけられていました。)
また田沼意次の政治を説明させてもらうとき詳しく申しますが、「株仲間」をどうも百田氏は誤解されているようなんです。
これ、幕府の財政の内訳では、統計上「小物成」(農業収入以外の雑税)に運上は含まれていて、1500~1600両の収入となっています。一定以上の増収の役割を果たしていましたが…
田沼時代(1772~86)の15年くらいで備蓄された金は、171万7529両で綱吉時代以降、最高額になるのですが、株仲間の運上・冥加が幕府財政にどれだけ寄与したか、微妙なところです。
「それまでとは違う新しい政策」をおこなった、ということで評価されたのであって、幕府財政にどれだけ寄与したか、ということの評価ではありません。