『日本国紀』読書ノート(73) | こはにわ歴史堂のブログ

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73】吉宗は「生きた経済」をわかっていた。

 

「享保の改革」の全体像をふまえていないため、

 

「…このあたり、吉宗は生きた経済がわかっていなかったといえる。」(P202)

 

というような説明をされてしまい、

 

「これ(定免法)により、幕府の収入は安定したが、農民にとっては不作や凶作の時には、非常に厳しい状況になった。また豊作の時は米の価格が下がるので、幕府にとっても農民にとっても益は少なかった。」(P202)

 

という話になってしまったと思います。

 

まず幕府の側からみれば、豊凶によって税収が変わる状態で予算を組んでいた従来の検見法による方法のほうが経済をわかっていないやり方だったと思います。

「農民にとっては不作や凶作の時には、非常に厳しい状況になった。」とありますが、実は、こうなった場合は少なく、何より開墾や農具の改良や肥料の使用による増産分はすべて農民の取り分になったので、定免法を歓迎した農民のほうが多いのです。

(「郡上一揆」という一揆があったのですが、これは定免法をやめて検見法に戻そうとしたことに反対する一揆でした。)

「農民にとっても益は少なかった」とは言い切れません。

それに経済というのは、「目的と結果の一致」が大切です。定免法の採用の目的は年貢の増徴にあったので、幕府にとっても失敗ではありませんでした。

実際、財政の立て直しに成功したことを受けてから、1728年に65年ぶりの日光社参を命じ、「上げ米」(参勤交代の半減と引き替えに大名1万石につき100石献上させる制度・年間187000石集めることに成功)の制度を廃止しています。

 

さらに吉宗の「新田開発」は単なる「農業改革」(P202)ではありません。

まず、江戸日本橋に「高札」を掲げました。内容は、町人に新田開発の協力を求めるもので、資金力のある商人に開発を請け負わせ、開発田は一定期間免税とするものです。発達してきた商人の力を利用するもので、飯沼・紫雲寺潟・武蔵野・見沼代などの開発が進み、20万石以上の増加となりました。

十分、商業の発展で成長した商人たちを活用(「民間活力の導入」)しているといえます。

また、幕領内の商品作物の栽培に目をつけ、畑作地からの年貢増収もおこなっています。

「また豊作の時は米の価格が下がるので」(P219)と説明されていますが、もちろん吉宗もそれを理解しており、米価の平準化をめざすために大坂の堂島米市場を公認しています。

それからさらに22品目に関して商人に組合・株仲間を認めています。これらは後の田沼意次の政策につながります。

 

「『享保の改革』で徹底した緊縮策をとっていた吉宗だが、一向に景気が回復しない状況に困り果て…」(P204)

 

と説明されていますが、これも正確ではありません。

相対済し令にみられる行政改革を進める一方、小石川養生所の設置などの社会福祉政策、甘藷の栽培、薬草・朝鮮人参の栽培などは財政出動といえるものです。

この間、飢饉もありましたし、米価の高騰もありましたが、これに合わせるように、いわば、ブレーキ・アクセル両方を使い分け、物価の安定に苦労しています。元文小判の発行もあくまでもこの一環です。

「苦労した」ということは「生きた経済」を御しようとしていた証でもあります。「生きた経済」がわかっていなかったとは言えません。

 

享保の改革によって幕領の米の生産は400万石から440万石に増え、年貢の収入は順調に伸びて、宝暦期を迎えています。

米価の下落・収入減は宝暦に入ってから(1751)で、その対策のために田沼意次の諸改革が始まりました。

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