『日本国紀』読書ノート(72) | こはにわ歴史堂のブログ

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72 吉宗の宗春に対する憎悪はすさまじくない。

 

「吉宗の宗春に対する憎悪は凄まじいものがあった。宗春を強引に隠居させ、名古屋城の三の丸に蟄居を命じ、死ぬまでその屋敷から出ることを禁じたばかりか(父母の墓参りさえ許さなかった)、死後も墓に金網をかけたほどだ(吉宗の方が先に亡くなっていたが、おそらくは遺言か何かで命じていたのであろう。)」(P204)

 

こんな説明を書かれてしまうと、何と言っていいかわかりません。

宗春蟄居・謹慎事件は、尾張藩内の政争、老中松平乗邑との関係、幕府と朝廷の対立といった複雑な問題を背景としていて、現在では単に宗春が吉宗の享保の改革に逆らったため、という考え方は希薄になっています。(この話は詳しくまた番外編で)

 

確かに長期にわたる「蟄居・謹慎」をさせられていたことは確かですが、尾張藩内の「藩主押し込め」という側面もありました。

吉宗は、宗春を憎悪はしていないのではないでしょうか。やむをえない措置、という感じがします。

もともとお気に入りの譜代衆として吉宗は宗春を遇していましたし、何より自分の名前の一字「宗」を贈っています。

(その後、その「宗」という字を没収もしていません。)

蟄居・謹慎後も吉宗は、宗春に使いを送り(気色伺い)、生活の様子を心配していることがわかっています(『尾公口授』)。

また、蟄居・謹慎後も「尾張前黄門」の名乗りが許されていて、蟄居の場所も名古屋城の三の丸。

ここは六代藩主の実母のお屋敷でしたから、閉じ込められた、という感じはまったくありません。

(そもそも「死ぬまで屋敷から出ることを禁止された」といいますが、庶民のお家とは規模が違いますし、悠々自適のご隠居状態で、陶器を焼いたり、吉宗から拝領した朝鮮人参を栽培したりしていました。)

 

「死ぬまで屋敷から出ることを禁止された」というのも誤りで、後に前藩主専用の7万坪以上あるご隠居屋敷に移っていますし(側室二人もいっしょに生活・ほんまに謹慎やったんかい?)、尾張藩の祈禱寺興正寺にも参拝記録が残っています。

また、「父母の墓参りも許されなかった」というのも文献上確認できず、後に菩提寺である建中寺へお参りに行っていて、その時、市中の人々が提灯を軒先にならべて参拝を迎えた、という記録もあります。

「死後も墓に金網をかけたほどだ(吉宗の方が先に亡くなっていたが、おそらくは遺言か何かで命じていたのであろう。)」という話に至っては完全な「江戸の俗説」を真に受けてしまっておられます。

(江戸の小塚原で罪人の墓に金網をかける、というのはありましたが、御三家のご隠居の墓に金網をかける、なんてことはありえません。「江戸の俗説」として他にも「綱吉無理心中事件」、というのもあり、信子の墓に金網がかけられた、という話がありますがこちらもウソです。)

 

吉宗と宗春の「対比」はよく言われるものです。

吉宗の緊縮財政、宗春の自由主義経済政策、吉宗のデフレ、宗春のインフレ、吉宗の規制強化、宗春の規制緩和…

経営者や金融アナリストの方たちが、吉宗を批判し宗春を評価するのはこういった「部分」です。

でも、江戸時代を、現在の資本主義社会と比定して説明するのは、一面の正しさの指摘もありますが、他の部分を大きくそぎ落としてしまい、史実とかけ離れてしまう場合がほとんどです。(このあたりの話はまた後ほど)