【49】「戦国大名」は戦乱を収めるために出現した。
戦国時代… 戦国大名が勢力の拡大のために戦いを続けていた「戦乱の世」というイメージがあります。
実は戦国大名は、この点、パラドキシカルな存在という一面もありました。
「彼らは互いに近隣の大名との領地争いに明け暮れていて…」(P137)
「…各地の戦乱は一向に収まらなかった。」(同上)
とあるのですが…
鎌倉時代から室町時代にかけての武士たちは、基本的に「細かいことは全部自分でする。」という感じでした。
領地のもめ事も、大きなことは幕府が裁定しますが、細かい話は当事者同士のケンカで解決しちゃうというのが慣例でした。
室町時代になると、「全部いったん、上に報告しろ! 自分で解決するな!」というように変わっていきます。
室町時代に、守護の仕事が増えていきますが、そのうちの一つに「刈田狼藉をする者の逮捕」というのがあります。
ある土地があります。その土地はAさんのもの。でも耕しているのはBさん。でもBさんがCさんに借金していると、その収穫物の権利はCさんにもある。で、Bさんの主人がDさんだとすると、Dさんにも権利が出てくる…
日本の場合、土地とその支配者の関係はかなり複雑なのです。
で、みんなが「これはおれのもんだ」と主張しはじめてケンカになる。
で、その所有の権利を明確にし、所有権を主張する行為として、その土地の農作物を強制的に刈り取ることが横行したのですが、それが「刈田狼藉」です。
鎌倉時代は、基本的にこれを自力で(喧嘩で)解決したわけですが、室町時代に守護に「刈田狼藉をする者を逮捕する」権限が与えられた、ということは、土地の所有権の裁定を守護が掌握した、ということに他ありません。
「おまえらで決めるな、おれが決める」が守護です。
そしてもう一つ守護が獲得したのが、「使節遵行」です。
これは幕府が決定したことを、その通りに実行させる、という権限で南北朝の争乱で混乱した土地所有権の問題を守護に現場で解決させました。
・自力解決としての刈田狼藉を認めない。
・使節遵行を徹底する。
戦国大名の「分国法」に「喧嘩両成敗」の項目がみられる理由はこれでわかりましたよね?
「自立で(喧嘩で)解決するな! もめ事起こしたやつはすべておれに報告せよ。幕府が決めたように、幕府が言うたようにせよ!」
というのが守護でしたが、それが今度は応仁の乱後、
「自立で(喧嘩で)解決するな! もめ事起こしたやつはすべておれに報告せよ。おれが決めたように、おれが言うたようにせよ!」
というのが戦国大名になります。
おもしろいもので、戦国大名は、自分の領地内の戦国時代を終わらせることで、はじめて戦国大名としての資格を得ていたようなものなんです。
戦国大名は、自分の領内は自立解決させませんでしたが、隣国との問題は、自力で解決しようとしてしまいました。
本来なら、幕府が裁定するはずですが、その力が無くなってしまった…
織田信長が京都をめざし、将軍足利義昭を奉じて幕府を再建したのも、やはり「古い権威」の枠組みでの新しい勢力の交代ともいえます。
かつて、幕府は使節遵行権を、各守護大名に委託して支配しましたが、今度は一人に使節遵行権を与えたようなものです。
豊臣秀吉の場合は、朝廷から使節遵行権を与えられたようなもので、惣無事令は、戦国大名たちに「喧嘩両成敗」を宣言し、「おれが決める」と宣言したことになるわけです。
「権威」が使節遵行権を複数に委託して支配したのが室町幕府。
「権威」が使節遵行権を一人に委託して支配したのが織豊政権。
ともいえます。