『日本国紀』読書ノート(50) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

テーマ:

50】織田信長の軍事・経済政策は、過大に評価されている。

 

織田信長ほど、信長「で」何かを語られる、という人はいないのではないでしょうか。

信長をアナロジーとして何かを語る…

よって、専門外の経済学者や経営者やら小説家やら、いろんなことを語ってしまってピンキリの情報が出回っています。

 また、信長研究も、まさに振り子のようで、なかなか概説化するのも慎重な姿勢が求められます。

一次史料にもとづいて説明していく、という姿勢をむしろ徹底させたほうがよいような気がします。

 

「当時、商人たちの組合のような存在であった『座』を廃止し、経済活性化を図ったのだ。それまで商人は『みかじめ料』のようなものを寺社やその土地の実力者、座などに支払っていたが、信長はそれらをなくした。これは現代風にいえば、『規制緩和』と『減税』である。おそらく信長は商人たちから『税金』のようなものを徴収していたと思われる。」(P140)

 

これ、よくみられる説明ですが、商人たちから税を徴収したのでは、百田氏の言葉を借りるなら「みかじめ料」を徴収するのが寺社や荘園領主から信長に代わるだけで、経済の活性化にはつながりません。

 

1577年に出された「楽市令」は十三ヵ条あり、以下の三ヵ条を用いて「楽市楽座」を説明します。

 

一 当所中楽市として仰せつけらるるの上は、諸座・諸役・諸公事等、ことごとく 免許の事。

一 普請免除の事。

一 分国中徳政これを行うといえども、当所中免除の事。

 

実は、「楽市令」は信長が安土城下に1577年に出したもので、これをもって織田信長の全征服地の経済政策であるかのように説明してはいけません。

いやいや、岐阜にも出してるよ、という方もおられるかもですが、実は楽市令は二種類あり、岐阜の場合は、以前から(斎藤氏の時代から)楽市だったので、それを「安堵」しているんです。

つまり、信長以外にも、楽市令はけっこう戦国大名は出していて、信長に特徴的な政策とはあまりいえないのです。

 

それから「座を廃止し…」と述べられていますが、実は「座」は廃止されていません。

座から税金をとるのを免除していただけです。

それどころか、信長も、「座」や「諸役・諸公事」を認めているんですよね。

信長は旧勢力も利用していて、自分に従うか従わないかを相手にせまっていたようです。従うなら認める…

 

また、小学校の教科書では、「馬の売買は安土で行わなければならない。」という項目も紹介されています。近江は各地に家畜の売買の市が立っていたのですが、それを安土に限定しました。

どうも、信長(だけではなく他の大名も)は、「規制緩和」をした、というより、新しい「商業統制」をしていたと言うべきではないでしょうか。。

 

信長が征服地に広く実施したのは「関所の廃止」と「指出検地」です。

でも、これは信長だけの政策ではなく、戦国大名の多くはこれをおこなっています。

 

では、なぜ、信長は「金持ち」だったのか…

 

まず、もともと「金持ちのボン」でした。

信長の織田家は、実は斯波氏の守護代をつとめた本家織田家じゃないんです。

傍流の大和織田家のさらにその家老の一つの家。

父信秀が、どうやら海運で儲けて力をつけていて(尾張の沿岸の湊をおさえていて)伊勢・鎌倉などの商人とのつながりがあったようです。

信長が若いときに、斎藤道三と面会し、道三が、信長が大量の鉄砲を持っていることに驚いているんですが、ほぼ同じ時期、信秀が堺に大量の鉄砲を発注していて、それが帳簿に残っているので、この話で出てくる大量の鉄砲の話はおそらく実話でしょう。

信秀が、伊勢神宮に七百貫、京都御所へ四千貫もの大金を寄付している記録もあって、信長はその経済力を引き継いでいます。

 

戦国大名が、領地を拡大した場合、二通りの支配があって、一つは、自分の領内で実施していたことをそのまま転用する、もう一つは「前のまま」。

信長は、両方併用していたような感じで、既存の経済も利用しています。

 

信長は、「矢銭」という名前の戦費負担を要求しています。商人や都市に協力金を要請するものですね。出さないと攻撃する、ということになる場合もありました。

「判銭」というのもありました。寺院や都市に「ここで戦うべからず」という制札を掲げるかわりに銭を出させるというものでした。

たとえば、1568年に足利義昭を奉じて上洛するとき、石山本願寺に五千貫、堺に二万貫要求しています。

 

「…撰銭令(良銭と悪銭の交換レートを定める)などの貨幣改革を行ない、貨幣価値を安定させ、経済を発展させた。」(P140)

 

とありますが、こちらのほうは失敗しています。信長の撰銭はうまくいきませんでした。

 

「…経済力を手に入れた信長は兵隊で金を雇うようになる。つまり戦いの専門家(傭兵)を持つことができたのだ。」(P140)

 

これは少し誤解されていると思います。

まず、「傭兵」は戦国時代にはすでにありました。武田氏や今川氏も「傭兵」の集団を持っていましたから、信長に特徴的なことではありません。

信長軍団の「軍役」については、あの明智光秀が詳細な記録を残していますが、収入にみあった軍役(兵士をつれて戦うこと)を課す、ということが細かく規定されていたことがわかります。

この点、関東の北条氏や今川氏とあまり変わりません。

 

『信長公記』におもしろい話が紹介されています。

ある家来が、安土の城下で火事を出してしまいました。

調べてみると、一人で生活していて、慣れない炊事で火を出したようです。

このことに信長は激怒しました。

というのも、信長は家臣たちに家族とともに安土の城下に集住するように命じていたからです。

さらに調べると、他にも百人以上がそうだったので、命令を徹底するため、その者たちの実家を焼き払わせた、と記されています。

土地の収穫を銭で換算します。そして家臣の知行地の収入(年貢額)を銭で換算した「貫高」で把握し、それを家臣に保障して貫高にみあった軍役を課していました。

信長は、安土に集住させるにあたって、知行地で得ていた収入を「扶持」という形で与えていたのです。

家族を養えるだけの高い給料を出しているのに何しているんだ!という信長の怒りです。だから、これを「傭兵」というのは誤りです。給料制というべきでしょう。

下級武士は、上級武士(寄親)に預けて(寄子として)面倒をみさせて組織化しました。親子関係を擬した主従関係をつくって団結させていたのです。

長槍の部隊、鉄砲の部隊などこれに基づいて分業させました。

信長が、秀吉の結婚式に祝儀を持って来たり、秀吉が後の加藤清正や福島正則を子どもの時から面倒みたりしていた話も、こういった「寄親-寄子制」の枠組みの中で理解できると思います。

 

実は、こういう制度は、たいていの戦国大名は採用していました。

ただ、信長のように家来を農地から切り離して信長のもとに集住させず、知行地に住ませていた、という点で、他の大名の兵士たちは機動性に欠けていました。

農業生産が高い濃尾平野、父の代からの伊勢湾の水運が背景にあったことがこれを可能にしたと思います。

 

織田信長は、従来ほどは過大に評価されなくはなりました。

 

「日本史上に現れた突然変異」(P143)

「戦国時代だからこそ生まれた傑物」(同上)

「戦国時代を収束させるために出現した」(同上)

 

というのはやはり、196070年代の戦国時代と信長のイメージを引きずったままの表現です。

あくまでも、既存の枠組みの中で、他の大名よりはすぐれた制度の運用ができた人物、というところでしょう。

 

ちなみに、他の戦国大名や兵が「仏罰」をおそれて僧兵と戦うのを避けた、というのもイメージにすぎません。

たとえば信長の評価として、「比叡山を焼き打ちする、というのは、当時の常識から考えてありえない。」というような説明をする場合がありますが(司馬遼太郎の『国盗り物語』など)、鎌倉時代から武士たちは寺院などもあまり抵抗無く焼き打ちをしています。

応仁の乱などは、足軽が寺院などにも火を放って、さらには家財道具・仏具なども盗み出しています。

 

信長は、すぐれた戦国武将の一人であることは確かです。

しかし、現在は、史料に基づいた、等身大の「信長像」を描こうとしています。