『日本国紀』読書ノート(43) | こはにわ歴史堂のブログ

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43】「籤引き」は将軍権力の弱さを示すものではない。

 

「義持が危篤になっても後継者を指名しない状況に、困った群臣たちは評議を開き、石清水八幡宮で籤引きをして、義持の四人の弟の中から次の将軍を決めることとした。」(P124)

「誰を選んだとしても、有力な守護大名の許可を得なければ認められない状況があったためといわれている。」(同上)

「将軍の力が弱かったという証左である。」(同上)

 

「籤引き」で決めた、というと、現在の「くじびき」のイメージを重ねてしまい、ついつい、「くじで決めるなんてテキトーすぎるやろ」と考えてしまいますが…

(候補四人を集めて、「はい、えらんで~」とくじを引かせて、当たり、て書いているのが当選!みたいなもんじゃないですからね。「籤」のやり方、知らない方おられると思います。)

 

さて、後継者を決められないとき、あるいは政策を決定したりするとき、「籤」に委ねる、というのはわりと武家や公家、皇族の家内ではありました。

「公開籤引き」、が、珍しいだけで、人知れずこっそり籤で決められたこと、昔はわりとあったと思います。でなければ「籤引き」が儀式として残ったりはしません。

 

義持の時代、将軍の力は弱かったのでしょうか。

むしろ将軍権力は義教まで強かった、つまり義満から連続していた、と考えるべきではないでしょうか。でなければ義教が専制的な権力を行使しえた背景が説明できません。

「歴史まんが」にあるみたいに、「神に選ばれた将軍」と思って本人が力をふるい、守護大名もおそれ入っていた、なんて説明は現在はしません。

 

義持が発病してから10日ほどで死去してしまいます。急死といってもよいと思います。

群臣(斯波・細川・畠山氏)が何とか将軍に後継者を決めてもらおうと「お願い」をしています。

醍醐寺の満済(義満・義持の信頼が厚い)を仲立ちとして将軍の意向を求めますが義持は「評議」で決めるように言い、指名はしません。

この状況、将軍の力が無い、というより、だれか突出した有力守護がいない状態を示していると考えられます。つまり「守護大名の有力者で決められない」状況で、将軍に決めてほしいと再三「お願い」している様が伝わります。(『満済准后日記』)

 

義持は、だれか有力者が将軍を擁立する、という状況を避けようとしていたように思います。

義持は、「自分の死後に籤引きせよ」と伝えますが、これに対して群臣たちは「籤を引くまで、将軍がいないことになります。生きているうちにお願いします。」と願い出ています。

将軍不在の政治的空白を群臣がおそれていることがわかります。

それに対して「では、生きているうちに籤を引いて、私が死んでから開け」と義持は群臣に伝えました。

これ、主導権はどうみても義持にあったことがわかります。

「将軍」が「公」な「機関」で、恣意的に決められる存在ではないものである、ということに移行していく過渡期を示す状況ではないでしょうか。

 

『中世公武権力の構造』(吉川弘文館・小林保夫)

『室町幕府の政治と宗教』(塙書房・大田壮一郎)

『日本中世の王権と権威』(思文閣出版・伊藤喜良)

『足利義持」(吉川弘文館・伊藤喜良)

 

蛇足ながら、将軍義持のおもしろい話を以下に貼っておきます。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11771570764.html

 

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