【44】応仁の乱は息子を将軍にしたい母の我が儘で始まったのではない。
「幕府は財政難と全国各地で何度も起こった一揆などにも悩まされており、幼くして将軍の座に就いた義政は政治を疎むようになった。義政は妻の日野富子や有力守護大名の細川勝元・山名宗全らに政治を任せ、自らは東山殿(慈照寺、現在の銀閣寺)と呼ばれる別宅に住み、趣味の世界に生きるようになる。こうした『将軍不在』の間に政治は大きく乱れ、後の応仁の乱を引き起こす原因となる。」(P126)
これも1960~70年代の学校教育でよく言われた話です。
インターネット上の説明(Wikipedia)も、この域をいまだに出ていません。
「幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数寄の道を探究した文化人であった。」
百田氏の説明も、まるでこの説明をなぞるようで、しかも誤っています。
①慈照寺は現在でも慈照寺。
当時が「慈照寺」で今が「銀閣寺」ではありません。
ちなみに慈照寺は1490年1月に死去した義政を弔うために翌月相国寺の末寺になりました。寺になるのは応仁の乱後です。
②東山殿は応仁の乱の後に建てられた。
義政は、1483年に東山の山荘に移っていますが、細川勝元も山名宗全も1473年に死去していますので、細川・山名に政治を任せて東山殿という別宅には住めません。しかも完成は義政の死後です。
③日野富子は幕政をまかされていない。
百田氏は、完全に応仁の乱前の話と、応仁の乱中・後の話を混同されてしまっていて、「応仁の乱」の時代をあまり理解されていないようです。
「日野富子と細川・山名に政治を任せて東山殿にこもり、趣味の世界にひたっていた将軍不在が応仁の乱の原因」と、説明されていますが、これでは事実関係も時系列もむちゃくちゃな説明です。
日野富子が政治の実権を握るのは、応仁の乱以降です。
1476年「御台一天御計」(『実隆公記』『後法興院記』)と称され、幕政に参与していることがうかがえるのはこの時からです。
義政が将軍職を義尚に譲った後は、日野富子の兄勝光が将軍代行のような形で政治を進めていました。
日野富子の幕政関与はこの兄の死後からです。応仁の乱が始まってから9年後のことです。
「義政の妻、日野富子は自分が産んだ子(義尚)を将軍にしようと考え、有力守護大名の山名宗全に義尚の後ろ盾になってもらおうと依頼する。」(P129)
実は、日野富子が山名宗全に義尚の後援を依頼した話はもう否定されています。『応仁記』にもとづく応仁の乱の説明はもはや前時代的。
「通史の決定版」と称して2018年に出された本で、新しい研究成果をふまえず(知らないで)「応仁の乱」を説明するのは無謀です。
「守護大名の台頭から応仁の乱へ」というタイトルにも関わらず、「守護大名の台頭」のメカニズムやプロセスがまったく欠落してしまっています。
中世、とくに室町時代の説明に入ってから、「流れ」がブツブツに切れてしまっている印象があるのは、やはり「ネタフリ」がされていない、あるいはしているのに受け継がれてオチになっていない、というところが問題なのだと思います。
「惣領制」の説明がないから「観応の擾乱」の意義が説明できない、義満が守護大名の抑制をした話がないから、守護大名の台頭の話に続かない、鎌倉時代に朝廷にあった外交権の話をしているのに、義満のときに幕府へ移った話がないから、日明貿易のときに義満が「日本国王」と名乗っている意味がわかりにくい…
足利義教の「万人恐怖」のエピソードばかりで話が埋められ、「嘉吉の変」の話とその後の展開が無いから、なぜ山名氏が台頭して、細川氏の地位が低下したか、応仁の乱につながる「守護の台頭」と対立の理由が見えない…
「籤引き」の話の奇異さにとらわれて、背景にある将軍職の「公的」機関化が見えてこない…
室町時代の説明に入って、かなりの誤解と誤りが増えてきました。もし日本中世史の専門家が読まれたら、かなり呆れられてしまうと思います。
この時代、「分割相続」から「単独相続」へ移行し、嫡子の立場が庶子に比べて絶対的優位となったため、その地位をめぐる争いが頻発していきます。
守護大名の相続も、それまでは家長が決定できたのですが、守護大名の家督がそのまま幕府の要職となるため(守護大名の「公的」機関化)、将軍がその家の相続に介入するようになったのです。
将軍や家臣団の意向を無視して守護大名の家督は決められない状態になりつつありました。
(現在の企業でも、最初は創業家が社長を恣意的に決められましたが、法人化して株式が上場されると役員会議の決定を経なくては社長には選ばれません。それとよく似ています。)
「応仁の乱」は、新旧体制への「移行の歪み」が生み出した争乱でした。
「応仁の乱」は「息子を将軍にしたいという母の我が儘な思い」(P130)や「人間的な感情」(P130)とは大きく離れたところで動いていたのです。