【41】義満の皇位簒奪計画は否定されている。
1990年に、今谷明氏が、中公新書から『室町の王権』(足利義満の王位簒奪計画)という本を出しました。80年代から論文などでそのような話がある、ということは聞いていて私も興味を持って読んだことがあります。
というか、正直、私も当時とびついたクチです。
現在では皇位簒奪を示すと考えられていた史料の批判的・実証的研究が進み、多くの点で根拠とされているところの誤りが指摘され、現在ではほぼ否定されているものではないでしょうか。(『室町時代の将軍家と天皇』石原比以呂・勉誠出版)
百田氏がどの段階でこの説を知られたかは知りませんが、もう一歩踏み込んで調べていただければ、高校生くらいでも「否定されている説」であることがわかったはず。コラムで紹介するだけにしておけばよかったのに、と思います。
「研究者の中には、暗殺(毒殺)されたと見る者も少なくない。」(P121)
中世史の研究者で、「少なくない」数の、どなたが「義満が毒殺された」という説を提唱されているのでしょうか。
また、百田氏が、「私もその説をとりたい。」とされている根拠は何なのでしょうか。
「タイミングがよすぎる」から、でしょうか。
しかし、そのタイミングも、そもそもが「皇位簒奪計画」が前提に無ければ存在しなくなります。
義満については、もっと説明しなくてはならないことがたくさんあります。
・明徳の乱、応永の乱で有力守護大名を退けていったこと。
・京都における朝廷の権限を順次奪っていったこと。
市中の裁判・警察権を検非違使から侍所に移管し、それを背景に商人から税をとるようになります。
・諸国に段銭を課す権限を得たこと。
・鎌倉時代には朝廷にあった外交権を幕府に移管したこと。
蒙古襲来のときに、フビライの国書を「外交の権限を持っていた朝廷」(P98)に回送している、という話がせっかくネタフリになっていたのに、なんでこの話をしないのか不思議です。
それから、言うまでもなく北山文化が抜け落ちています。
P126から「室町の文化」が説明されていますがそれは東山文化の話です。
また、寺院の寺格を整備した五山・十刹の制にも触れられていません。
さて、以下は「細かいことが気になるぼくの悪いクセ」ですが…
「義嗣は、遠くは清和天皇に連なる血筋であるから『万世一系』は保たれる、という理屈は成り立つ。しかし、それには何十代も遡らなくてはならず、実質的には万世一系というには無理がある。」(P120)
たぶん、数えてみればわかりますが、清和天皇までなら十数代遡ればいきつくはずです。何十代も前の話ではありません。先にも女性天皇をすべて「父親が天皇」と誤って説明されていましたが、百田氏は皇統のことをあまり詳しくないのかもしれません。
それからもう一つ。
「足利家には長男以外は出家して僧になるというしきたりがあったため、義持の弟たちは皆、僧侶であった。」(P124)
皇位簒奪の話の中で出てきた義嗣は、義持の弟で幼名鶴若丸と言い、確かに三千院には入りましたが、元服前に義満から連れ出されているので「僧侶」では無いと思います(叙任されているので出家していない)。
足利尊氏の弟、直義も出家していません。
尊氏の子、義詮の弟には基氏がいますが出家しておらず、基氏は初代鎌倉公方になります。
6代義教の子は、義勝で、その弟は義政ですが出家していません。
後継争いに発展せぬよう、出家させる場合はありますが、正室の子はあまり出家させられていないようです。他家に預けられる、というケースもありました。
とくに足利家だけのことではなく、皇族・貴族にもよくみられたことです。