【40】幕府は脆弱だったが政敵を倒すために天皇の後ろ盾が必要だったわけではない。
「…室町幕府の権力基盤は実に脆弱で、政敵を倒すためには天皇の後ろ盾が必要だったのである。」(P118)
幕府が脆弱であったというなら、南朝勢力はもっと脆弱だったといえます。むしろ朝廷は、武家がそれぞれの権力を拡大し、政敵を倒すために「利用」されていた、といえます。
以前に、通史は、次の話に繋がるネタフリを仕込んでおく必要がある、というような話をしたことがあると思います。
武士の説明に「惣領制」の話が書かれていない、という話をしましたが、「観応の擾乱」の複雑な背景は、あらかじめ惣領制を説明しておけば、ここで解決したのです。
1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任命されると、弟の直義、執事の高師直らに政治を分担させました。
鎌倉幕府以来の法秩序を重んじる直義らと、武力による所領拡大を重んじる高師直らの新興勢力が対立することになります。
こうして始まったのが「観応の擾乱」で、尊氏派・直義派・南朝勢力がそれぞれ入り乱れて10余年、争うことになります。
この動乱を長引かせることになったのが、「惣領制の解体」でした。
蒙古襲来後の「五十年」を通じて、武家社会では、本家と分家は独立し、それぞれの家の中で嫡子が全部の所領を相続し、庶子は嫡子に従属し、「分割相続」から「単独相続」に移行しつつありました。(分割相続による貧困化を食い止めるための自然な移行だったと思います。)
言わばこの過渡期に「観応の擾乱」が起こります。
こうした変化は各地の武士団の内部に分裂や対立を引き起こし、一方が北朝に立てば一方は南朝につく、という形で動乱を拡大させました。(詳説日本史B・山川出版・P122~P123より)
『太平記』にみられる尊氏・直義の兄弟対立、嫡子義詮と庶子直冬の対立などはこれを象徴して描かれているのです。
「分割相続」から「単独相続」へ、というのが鎌倉時代から室町時代への中世の変質で、それまで「血縁的結合」を主としていた地方武士団が、「地縁的結合」を重視するものへと変質していきました。
地方の武士が力を伸ばすと、幕府はこれらを動員するため守護の権限を拡大させます。
こうして守護大名に成長するわけで、これがさらなる「次のネタフリ」となるのです。
ところが、守護が守護大名へと成長する話がまったく出てきません。
有力守護大名が政務を分担して幕府が安定する(管領・侍所などの幕府機構が整備される)のにその話が無い、そして強大化しすぎた守護が抑制・整理されて(明徳の乱・応永の乱)義満が大きな力をふるうのにその話が無い…
室町時代の大切な話が、戦いの話や後継のもめごと、荒唐無稽な「皇位簒奪」や「暗殺説」に押しのけられてしまっているのが残念です。