【39】「建武の新政」の話がほとんど無い。
これは、少し驚いたところです。P113~P115までが「建武中興」という項なのですが、「建武の新政」の中身はまったくといっていいほど説明されていません。
恩賞が不十分だったから武士がそむいて新政が失敗した、みたいな、こんな説明はちょっとありえませんよ。
「二条河原の落書」の紹介だけでもかなり違ったと思うのですが、その紹介すらありません。
中学生が使う教科書の説明では、
「幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は年号を建武と改め、天皇を中心とした新しい政治をめざした。しかし、公家を重視する政治がおこなわれ、恩賞に不満を持つ武士もいた。また政治の失敗も相次ぎ、新政に不満を持つ者が多くなった。」
と、中学生対象でもこれくらいは説明します。
①天皇中心の政治とはどのようなものだったか。
②公家を重視する政治はどのようなもので、恩賞にどのような不満があったのか。
③政治の失敗とはどのようなものだったか。
これらの説明こそが「建武の新政」のキモで、これらの失敗と、これらによる不満を足利尊氏が吸収したからこそ、次の新しい武家政権の樹立につながりました。
①については、天皇親政のことで、院政を停止して摂関政治を行わない、ということ。
②については、形だけであった太政官の八省の長官が改めて任命され、また国司を重視し、貴族を国司に任命して復活させます。このことがすでに地方で利権を獲得していた地頭・守護の権益を損なったのです。
③は①との関わりがあるのですが、武士の土地の「本領安堵」をすべて天皇の命令(綸旨)で決定するとしてしまったものですから、綸旨を求めた武士が都に殺到し、どさくさまぎれの不正申告・不正受給も増加してしまいます。
「この恩賞は実際に戦った武士に薄く、たいした働きもしなかった公家に厚かった。そのため武士の間で不満が高まった。」(P113)
あまりに単純すぎる説明です。
「公家と武士の対立」のように説明されていますが、公家も武家もそれぞれ「ひとつ」ではありません。
後醍醐天皇は大覚寺統ですから大覚寺統支持の公家は優遇され、貴族間でも対立がありました。尊氏挙兵後、新政権を担保したのは持明院統です。「公家と武士」の二元的理解では後の展開が説明できません。
「武士」も一つではありませんでした。悪党たち・下級武士は革新を求めますが、旧幕府の御家人たち・上級武士は保守・現状維持を求める…
それぞれの要求にその場その場で応えていく、あるいは応えきれなくなる、という愚かな政治に陥ってしまいました。
幕府を倒すことを優先したため、広範な人をまとめようとして多様なマニフェストを濫発してしまった感じです。
ただ、この複雑な二元構造、多層構造は後の室町幕府初期の混乱にもみられました。
革新を求める高師直、現状維持・保守を求める足利直義の対立…
この矛盾と、その力づくでの解決が「観応の擾乱」となって現れたとも言えます。
「建武の新政」の中身の話はほんどなく、大半の説明はやはり「楠木正成の活躍」と戦いの説明です。
あと一つ、わからない説明があります。コラムなのですが…
「南北朝のどちらが正統であるかという議論は『南北朝正閏論』と呼ばれる。室町時代には南朝が正統と見做されていたが、その後は北朝が正統と見做されるようになった。」(P116)
室町時代は、南朝が正統と見做されていたのでしょうか…
これはいったい何に拠るところの説明なのでしょう。
少なくとも室町幕府にとっては、北朝は「正統」だったはずで、南北朝の合体が実現したときの「明徳の和約」でもどちらの皇統が正統かを決定していません。
むろん15世紀前半に編まれた『本朝皇胤紹運録』でも後村上・長慶・後亀山は天皇ではないことが明示されています。
室町時代は北朝が正統と考えられていた、とするのが普通でしょう。
不思議な記述です。