【35】鎌倉文化は、貴族の文化から武士の文化に移った文化ではない。
「優雅を重んじた平安の貴族文化から質実剛健な武士への文化へと変化し、多くの分野で傑作が生みだされた。」(P106)
これは誤った説明です。
鎌倉の文化は、平安時代から続く貴族の文化と、新しく台頭してきた武士や庶民の文化が、平行・並存、交差している文化です。
そして平安時代の文化や、その後の武士の文化をそれぞれ「優雅を重んじる」「質実剛健」であると決めつけてしまっています。
鎌倉文化は次の四つの側面がある文化です。
①文化の庶民への広がり
貴族や僧侶に独占されていた文化が武士や農民に広がりました。
京都や鎌倉へ、番役などで武士が往来し、商業が発達して商人などが地方にも行くようになり、都の文化が拡散していきます。
難しい知識が無くても理解できる仏教、文字が読めない武士・農民にも親しめる「語りの文学」としての『平家物語』などの軍記物、物語をビジュアル化した『平治物語絵巻』『蒙古襲来絵詞』などの絵巻物などが①の文化の例です。
また、和歌なども武士に広がります。
源実朝は藤原定家に師事し、万葉調の『金槐和歌集』などを残しています。
②貴族文化の保守化・変質
極論を言うと、貴族にとっては、平安時代は明治維新まで続いています。
ですから鎌倉時代の文化には貴族の文化が連続しています。その質的変化がみられるだけで、貴族文化が武士文化に変化したわけではありません。
さて、当時貴族の日記などには「新儀非法」という言葉がよく出てきます。
「新しいこと=よくないこと」という意味。
伝統・先例を重んじて、創造よりも保守、の段階に入りました。
鎌倉時代の貴族の文化は、古き良き時代の懐古、古典の研究、有職故実の研究などが中心になります。
また、貴族の政治的没落は、「世捨て人」の文学や貴族衰退の歴史研究を生み出します。
鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』、慈円の『愚管抄』などがそれです。
『宇治拾遺物語』『十訓抄』は作者不詳ですが『古今著聞集』は橘成季。おそらく説話集の作者は貴族か僧侶です。
随筆・説話・軍記物は②の文化の例でしょう。武士の文化とは言えません。
また鎌倉時代の文学を、
「平安時代のような貴族趣味は見られず…」(P107)
とまで説明されていますが、そんなことはありません。
まったく不思議なのですが、どうして百田氏は、この時期の貴族文化の代表といってもいい『新古今和歌集』を無視されているのでしょう。
「鎌倉時代の文学は、それまでの王朝ものに見られたきらびやかさが鳴りを潜め…」(P106)
とまで説明してしまっています。『新古今和歌集』は新古今調といわれ、洗練された技巧的なもの。
『新古今和歌集』が鎌倉時代の文学ということをご存知ないのでしょうか。
③武士の文化
武家は、現実的な、実際性に富む文化を生み出します。
農村を中心に生活する武士は質素・剛健が属性。
住居の武家造にみられる機能性、実用性、東大寺南大門の『金剛力士像』の写実性やたくましさは、③の例です。
④宋・元の大陸文化
日宋貿易により、すでに僧や商人が大陸と往来して様々な文化や生活様式を伝えていました。南宋滅亡後は、禅僧も亡命者も増えました。
「彫刻や絵画は、いずれも写実的で力強さに溢れており、ひと目で『鎌倉』らしさを感じ取ることができる。」(P107)
と説明されていますが…
百田氏は彫刻・絵画に「鎌倉らしさ」を感じ取られているようですが、当時の人々や知識人はこれらに「奈良時代の彫刻」と「宋の様式」を感じ取ったはずです。
運慶・快慶の彫刻、「金剛力士像」は奈良時代の彫刻技法と宋の様式を取り入れて創られました。
鎌倉時代の絵画・彫刻・建築は、奈良時代の文化のルネサンスです。
治承・寿永の内乱で焼け落ちた南都(奈良)の復興で生まれました。
この点、百田氏が『新古今和歌集』を無視されているだけでなく、鎌倉時代を代表する「建築様式」にも触れられていないのは不思議です。
奈良の復興のシンボルとして大仏の再建が図られましたが、それを担ったのが重源で、宋の陳和卿を起用しました。
東大寺南大門に代表される建築様式「大仏様」は宋の江南・福建の様式を取り入れたものです。
この他、「禅宗様」は中国の禅宗の影響を受けた建築様式で、禅宗の受容とともに全国に広がりました。
これらに対して、興福寺は日本の伝統的な建築様式「和様」で再建されています。
このように、鎌倉文化の建築・彫刻は、東アジアの最新文化の集大成だったともいえます。
鎌倉時代の文化の四分の一が「武士の文化」で、鎌倉時代の文化=武士の文化として語るのはかなり無理があります。