『日本国紀』読書ノート(36) | こはにわ歴史堂のブログ

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36】親鸞は、偽善と欺瞞を打ち破るために妻帯肉食を宣言したのではない。

 

「僧は妻帯肉食をしない、という建前で生きていたが、実は多くの僧が隠れて行なっていた。平安時代末期の仏教界はすっかり腐敗堕落していたのだ。親鸞はそうした偽善と欺瞞を打ち破るために敢えて肉食妻帯を宣言したと考えられる。」(P108)

 

親鸞が、「偽善と欺瞞を打ち破るために」肉食や妻帯を宣言した、ということを示す史料的根拠はあるのでしょうか。

親鸞の書としては『教行信証』があり、また弟子の唯円が師の教えをまとめた『歎異抄』があります。

この二つから親鸞の教えを説明すべきだと思います。

 

親鸞は三十一歳頃、「妻帯肉食」を公然とおこなったと考えられています。

前提として、親鸞は「老若男女、一切差別無くすべての人が救われる」、さらには幸せになれる、というのが真の仏教であると考えていました。

ブッダは、生命に上下は無く、平等であると考えていましたが、殺生なくして人は生きていけません。多くの人は殺生、肉食をしています。

また、仏教は「心中」、心の中でどう思っているか、を大切にします。

心が口や心を動かし、対象の存在も心が決めている…

つまり口や体で為さなくても、心の中で考えていれば、それは同じ。

すべての人は「妻帯肉食」をしている、というのが前提にあります。

妻帯肉食を否定しないと幸せになれないのならば、すべての人の救済、幸せは無いことになってしまう…

妻帯肉食をしていても幸せになれることが、真の仏教。これを明らかにするために親鸞は妻帯肉食を始めたと考えられます。

親鸞の目は、聖道仏教(旧仏教)に向いていたのではなく(批判するためではなく)、人々の救済のほうに向いていました。

明治時代に夏目漱石が「非常な力」「非常な強い根底のある思想」ということを親鸞の教えの評価としたために、「他宗派」への強いアピールをおこなったように誤解されがちです。しかし、一次史料からは、他宗派から親鸞が批判されていたことはわかりますが、親鸞からの批判は確認できません。

 

鎌倉仏教は、かつては新仏教として紹介されましたが、現在は「新旧」の表現が宗派の優劣の誤解を与えるため、教科書の表現から消えました。

現在は、「鎌倉六宗」と表現します。

 

これを「24」に分けて考えます。

禅宗2宗をのぞく4宗は、「易行・選択・専修」を特徴としています。

 

①救済に困難な修行はいらない。

②多くの経典の中から一つを選ぶ。

③それだけにすがる。

 

禅宗2宗がこれらの特色をふまえていないかというと、そうでもなさそうです。

①は、何やら禅宗にはそぐわないイメージがありますが…

②や③は、近いものを感じます。

しかし、そもそも禅宗は、坐禅によって人間に内在する仏性を自覚するもの。

いわゆる坐禅は「荒行」「苦行」とは違います。

 

「修行によって自らを救済する」(P109)

 

という表現も、栄西と道元の教えの違いをもう少し付け加えるだけで、意味するところが変わってきたと思います。

24」の差異は、「中国から平安末期・鎌倉初期に入ってきたもの(禅は奈良時代に伝わりますが)」と「旧来の日本の仏教から生まれたもの」の差と理解したほうがよいかもしれません。

 

この「鎌倉の仏教」の説明でも、不思議な部分を感じます。

 

第一は、「鎌倉六宗」のうち、日蓮の紹介がまったくない、ということです。

なぜ日蓮の教えが紹介されなかったのかがわかりません。

 

第二は、「禅宗」が中国からの伝来のもの、という説明が極端に希薄なことです。

 

第三は、親鸞の教えのうち「悪人正機説」にまったく触れられていない、ということ。

妻帯肉食の説明を無くせとは言いませんが、自力と他力の差を二つの流れと解釈されているのですから、「絶対他力」の説明も必要だったように思います。

 

第四に、念仏系のうち、一遍の時宗の話がまったくない、ということです。

「鎌倉六宗」の開祖を成年別に順に並べますと、

 

法然()→栄西()→親鸞()→道元()→日蓮()→一遍()

 

という流れになります。念仏系の法然・親鸞・一遍の教えに最も反映されているように「選択」「易行」「他力」の特質が極端化していきます。

民衆の中に熱狂的に広がった「一遍現象」ともいうべき踊念仏の説明が無いのも不思議です。

 

第五に、「鎌倉六宗」に対して「南都六宗」の動きがまったく説明されていません。

かつては新旧仏教として紹介されましたが今は「南都仏教」という表現で対比させて説明します。

とくに鎌倉六宗の動きを受けて、「南都仏教」に改革の動きが出てきたところが教科書では取り上げられています。

華厳宗の高弁、法相宗の貞慶、律宗の叡尊・忍性の説明がまったく無いのも驚きです。

病人の救済、架橋工事など社会事業に力を注ぎ、忍性は奈良に北山十八間戸を、鎌倉に悲田院をつくっています。

 

「鎌倉六宗」の祖たちは、実はほぼ蒙古襲来前に活動し、蒙古襲来後もしばらく存命だったのは一遍だけです。(日蓮は弘安の役後一年ほどで没)

蒙古襲来後、国家意識の高まりから度会家行によって伊勢神道が大成されました。

蒙古襲来前に「鎌倉六宗」が成立し、蒙古襲来後、14世紀に伊勢神道が確立されています。

 

「伊勢神道が生まれたのもこの頃である。」(P109)

 

というのもあまり正確な説明ではありません。

宗教史的な説明では蒙古襲来前後にわけて、思想の変化を説明しているからです。