『日本国紀』読書ノート(34) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

テーマ:

34】「悪党」は、悪党では無い。

 

以前は、蒙古襲来時の恩賞が不十分で御家人が窮乏した、という説明をよくしました。

実は、元寇の30年以上前から、御家人の窮乏は始まっていました。

現在では、御家人の窮乏と、蒙古襲来時の恩賞やその後の軍役負担増に対する不満は別にして説明します。

 

1240年にすでに御家人に対して領地の売却を禁止する命令が出ています。

1267年には、領地を質入れして金を借りることを禁止しています。質流れになっていた土地も、代金代償の上、取り戻させています。

 

また、蒙古襲来後に幕府が衰退した、とも説明しません。

御家人の窮乏と幕府の衰退は別で、幕府の権限はむしろ強化されました。

しかし、一方で農村社会は大きく変化していきます。

二毛作や牛馬耕、肥料の開発などで生産が高まり、余剰生産物の売買が始まり、商業・手工業が発達します。

 

昔からの中小御家人が没落していく一方で、経済情勢の転換をうまくつかんで勢力を拡大する武士が生まれてきました。

とくに畿内やその周辺では、余剰生産物の売買で力をつけた荘官・名主などが台頭していきます。

そのような中には、幕府の地頭もいました。

こうして荘園領主に対抗する地頭や非御家人の新興武士たちが成長し、武力に訴えて年貢の納入を拒否し、荘園領主に抵抗するようになっていったのです。

彼らが「悪党」と呼ばれる人々ですが、これは荘園領主たちの側からの呼称で(訴訟などの原告側の表現)です。

しかも「悪」は中世では現在の「悪」とは少し意味が違います。

「強い」「既存の価値観にはとらわれない」という意味が濃厚で、「はんぱねー」みたいな意味も含まれています。

それだけではありません。地域によっては荘園領主や幕府の守護とも連携し、協力関係を築いている者たちもいました。

彼らの特徴は、鎌倉時代後期の社会の変化に対応して生まれた、ということです。

 

例えば楠木正成です。

彼の家紋は「菊水」です。

「水の流れ」が家紋になっていますが、南河内の小河川の運輸をおさえ、余剰生産物の運搬・売買で勢力を拡大しました。

また、根拠地千早赤坂には、「赤」という色が地名についています。

水銀の産地であったともいわれています。

水銀は、「朱」や「金メッキ」と関わりがあります。よって寺院や神社にもコネクションを持っていました。後に後醍醐天皇との繋がりがここから生まれたと考えられます。

後醍醐天皇を隠岐島から救い出した名和長利の家紋は「舟形」です。

日本海の水運によって成長した勢力であることが示唆されます。

 

「悪党」はこうした社会・経済の変化から生まれた新興経済勢力です。

既存の荘園・公領体制、幕府の土地支配関係にとらわれない、そしてそこから抜け出したい勢力です。

こうして後に、後醍醐天皇の挙兵、倒幕運動に協力する勢力の一つとなるのです。

 

社会・経済史の視点をふまえていないと、

 

「西日本の各地に、徒党を組んで、他人の土地や財産を奪う武士たちの集団『悪党』が生まれた。」(P166)

 

という説明になってしまいます。

これではまるで既存の古い勢力の側である当時の荘園領主の発言のようで、現在このような一面的な説明はしません。

AD