【32】世界史からの蒙古襲来の視点が欠如している。
現在の高校2年生から、いわゆる長く続いてきたセンター試験が廃止され、新テストが導入されます。
また、現場の社会科教育では、日本史・世界史・地理をそれぞれ単独教科として教えるのではなく、ヨコのつながりを重視し、総合的に理解させ、考えさせる教育も始められてきました。
「蒙古襲来」は教材としてはこの点では良質な素材となりえています。
「鎌倉武士の決死の戦いが蒙古軍を撤退させたのだ。」(P100)
私も、この「視点」には賛成です。
従来は、蒙古の集団戦法に対して日本の一騎打ちが苦戦した、とか、暴風雨に助けられた、などが強調されすぎました。
日本の一次史料の研究だけでなく、高麗や元側の史料の検証から、御家人たちの戦いは、もっと高く評価されてもいいと考えています。
授業でも10年間くらいは、「かつての教科書」の記述を紹介しながら今ではこういう説明はしない、という形で紹介してきました。
教科書の記述も、ようやく変わりつつあります。
が、しかし、
「鎌倉武士の決死の戦い」
という表現には、少し誤解があります。「鎌倉武士」ではなく「九州地方の武士」が中心となって戦ったのです。おそらくは「鎌倉時代の武士たち」「鎌倉幕府の御家人たち」というイメージで説明されているのかもしれませんが、たとえば教科書の検定などでは誤り、あるいは誤解を招く、ということで指摘が入る箇所です。
細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが、でも、「文永の役」では、幕府は、「九州地方に所領を持つ御家人」に動員をかけて迎撃させています。
入試でも、
「幕府は、御家人たちを九州に派遣して元軍の侵攻を撃退した。」
という説明・選択肢は誤りになるので、ここは正確に説明してもらいたかったところです。
「誤り」といえば、
「さらに、弘安の役以後、幕府は異国警固番役などを命じたため…」(P105)
と説明されていますが、異国警固番役の開始は、文永の役の前です。
P99で「時宗は、御家人たちに防御態勢を取れと命じて、蒙古軍の襲来に備える。」と説明されていますが、ここで異国警固番役が開始されました。
入試でよく出る時系列は、
①異国警固番役の開始
②文永の役
③異国警固番役の強化・防塁の構築・元が南宋を滅ぼす。
④弘安の役
という流れです。
教科書には、
「異国警固番役は九州地方の御家人に課せられ、文永の役の前から始まったが、文永の役後、大幅に整備された。防塁の構築は御家人だけではなく、九州地方の所領所有者たちに割り当てられた。」(詳説日本史B・山川出版P108)
という説明がされています。
百田氏は、「石塁」(P101)と説明されていますが、これも以前の教科書で記されていた単語です。今は「防塁」あるいは「石築地」と表記されています。福岡教育委員会などの調査や現地での遺跡の説明にそろえるようになったと思われます。
さて、最初のお話です。
蒙古襲来は、世界史、とくに東アジア・東南アジア史の枠組みの中でとらえることが重要です。
日本一国のみの視点からみてしまうのを避けるのが現在の歴史教育です。
「世界の大半を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけである。これは日本人として大いに胸を張ってもいいことだと私は思う。」(P105)
蒙古襲来は、日本が撃退した、と優越感にひたってしまうだけでは、歴史の理解としては一面的です。
以前に、ビジネスジャーナルで『日本国紀』の書評でも書かせてもらったのですが、通史は、
「テコで説明するか合力で説明するか。」
という二つの手法があります。蒙古襲来は「合力」で説明しないといけません。
とくに「戦争の歴史」は、政治・外交・経済を複合的に説明せず、単に軍事力だけをクローズアップしてしまうと「戦争の勝利=軍事力の優位」という誤った理解をうえつけかねません。
戦争の歴史を誤って説明してしまうと「独立は戦わなければ守れない」という狭く誤ったメッセージとなります。
まず、高麗での三別抄の乱の話がまったく出てきません。元の支配に抵抗した三別抄の乱は、長く続き、フビライによる日本遠征を遅らせています。また、日本にも連携を求めていました。
フビライは日本との交渉、日本への攻撃に高麗を利用しています。高麗の元に対する抵抗は日本遠征へのかなりの障害になっていました。
幕府の「時間稼ぎ」が成功する重要な背景です。
高麗は、文永の役に際する食料の調達や労役、徴兵によって物質的・人的損害が甚大で、二度目の攻撃を思い止まってほしいとフビライに要請しています。
また、文永の役後に南宋を滅ぼしていますが、その戦いによる損害や、支配した中国での徴兵忌避など、兵力量のわりに軍の指揮系統の乱れや士気の低下はかなりみられました。
三回目の計画は、すでに軍船と兵員が準備されていましたが、ベトナムでの反乱を鎮圧するために延期されます。
ベトナムの反乱がなければ三回目の襲来は確実にありました。
現在の歴史教育では、東アジア・東南アジア全体の枠組みの中の一局面として蒙古襲来をとらえつつあります。
それから「戦闘の敗北」が「敗北」であるというのは浅薄な理解です。
戦闘に負けても、中国・朝鮮・東南アジアの「抵抗運動」が続いていたわけで、戦闘に負けたことは「敗北」とは限りません。(これらは近代以降の戦争にも言えることです。)これらのことも、日本が蒙古の襲来を撃退できた大きな理由の一つです。
また、おもしろい事実もあります。
モンゴルが日本に求めてきていたのは、最初の国書で明らかなように「通交」でした。
文永の役後、1277年、元は泉州に外国貿易のための役所を設置し、翌年、日本の貿易船4隻の来航・交易を許可しています。
正確な国際情勢の把握と、それに基づく外交が展開できていたなら、元の攻撃が一回で終わる可能性もありました。
それから、元による日本の攻撃を「二回」と狭く理解することは、「日本の歴史」を説明する上で、少し問題があります。
実は、モンゴルはアイヌと戦っています。
アイヌによるサハリンの攻撃がなければ、モンゴルは蝦夷地に侵入していた可能性もあります。また、琉球への攻撃も数度おこなわれていました。
教科書によっては、これらを明記するものも出てきています。
「…アイヌの人びとのうち、サハリンに住んでいた人びとは、モンゴルと交戦しており、モンゴルの影響は広く日本列島におよんでいった。」(詳説日本史B・山川出版P110)
「私たちの国・日本」という言葉が帯に記されていますが、「私たち」から漏れている視点があってはならないと思います。