【31】朝廷は,蒙古からの国書にどう対処していいかわからずおろおろしていない。
「当時、外交の権限を持っていた朝廷は、蒙古からの国書にどう対応していいかわからず、おろおろするばかりだったが…」(P98)
別に朝廷は「おろおろ」ばかりしてはいません。史料的に、どのような根拠でこのような説明をされているのかよくわかりません。
フビライの国書は高麗の使節によって1268年1月にもたらされました。大宰府にある鎮西奉行のもとに届いた国書は鎌倉にまず送られましたが、その後、朝廷にも回されます。
同年3月、時宗は執権になります。「驚くべきことに、この時、時宗は十六歳だった」とありますが、驚くべきことではありません。
北条政村が執権のときの連署は北条時宗でした。政村は3代執権泰時の弟。もともと本家の時宗が成長するまでの中継ぎで、時宗は政村の下で執権見習いのような形で成長が待たれていました。
フビライからの国書を得て、実務的な対応の必要性を感じ、政村は象徴的な執権の座を時宗に譲り、自分は時宗の地位にあった連署になります。
ですから、
「鎌倉武士団の団結を高めるために、六十二歳である自身は引退し…」(P98)
というのは明確な誤りです。政村は引退などしていません。
若い時宗を支える連署として、安達泰盛・北条実時・平頼綱などの幕府の有力者とともに政治を執っていきます。
ちなみに、時宗は、このとき、夷狄調伏の祈禱を寺社に命じています。神仏に願をかけていたのは朝廷だけではありません。
さて、朝廷ですが。
べつに「おろおろ」していません。評定を開き、対応を協議していることは当時の記録からはっきりしています。(『深心院関白記』『岡谷関白記』『後知足関白記』)
「北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した。」(P98)
「蒙古はその後、何度も使節を寄越したが、時宗は返書を出そうとする朝廷を抑えて黙殺する態度を貫いた。」(同上)
「…無礼な手紙に対して返書をしないのは当然である。」(同上)
とありますが、これらは1960年代の「時宗英雄説」に基づいています。
「国書」に返信しなかったのは、「時間かせぎ」のためです。
未熟な時宗を中心とする国内体制を早期に整え、迎撃の準備を進めるための、北条政村・北条実時・安達泰盛・平頼綱の老獪な作戦でした。
「蒙古がいかに強大な帝国であるかという情報を、南宋と貿易していた鎌倉幕府が知らないはずはない。」(P98)
「時宗は蒙古の恫喝に萎縮することはなかったのだ…」(P98)
とありますが、南宋と幕府は貿易をしていたわけではないので、情報は宋から渡来していた禅僧たちからのものが中心でした。当然、当時、元の圧迫を受けていた宋の立場に立った意見を時宗らに伝えていたはずです。
モンゴルの「強大さ」や当時の「正しい国際情勢」が伝わっていたかどうかは疑問です。
さらに「時間稼ぎ」には、思わぬ(意図せぬ)協力がありました。
高麗です。
高麗は、日本への遠征が実現すると、戦費の負担や出兵に協力しなくてはならないので、フビライに遠征を止めるように説得しています。
そして1268年の使節は、7ヶ月も大宰府に滞在してから帰国し、「残念ながら回答を得られなかった」と伝えます。
1269年2月、フビライは二回目の使節を高麗に命じましたが、対馬において、これより先に進むことを拒否されました。『五代帝王記』によるとおもしろい記事が出ていて、このとき、対馬の住人二人を連れ帰り、これをフビライのもとへ送っています。
『元史』にもこの話が記載されていて、フビライはこの二人に宮殿などを見せて国威を見せつけました。
これ… まさか高麗が、対馬でつかまえた日本人を、日本の使い、みたいに偽ってフビライに届けたってわけではないとは思いますが… かなり高麗の使節はサボタージュをしているのがわかります。
1269年9月、この二人を帰国させる名目で使者をさらに大宰府に送ってきました。
このときもたらされた国書は、フビライからのものではなく、中書省が発したものでした。朝廷が拒否の回答をするために返書を書こうとしたのはこのときが初めてです。
「蒙古はその後、何度も使節を寄越したが、時宗は返書を出そうとする朝廷を抑えて黙殺する態度を貫いた。」「無礼な手紙に対して返書をしないのは当然だ。」という説明ですが、これでは、まるで朝廷がモンゴルの威をおそれて無礼な内容の手紙に返事を出そうとしていたのを、時宗がやめさせていたかのような印象を与えてしまいます。
ちなみに、朝廷が出そうとしていた返書は、以下のような内容です。
「蒙古之号」は未だ聞いたことがなく、貴国はかつて人物の往来もなく、本朝はどうして貴国に好悪することがあるだろうか。そうした由緒を顧みず、「凶器」を用いようとしている。春風が再びやって来ても、凍った氷はなお厚い。聖人の書物や釈迦の教えは、救い生かすことを素懐として、命を奪うことを悪い行いとする。どうして自らを「帝徳仁義之境」と称しながら、かえって民衆を殺傷する源を開くのか。天照皇大神から日本今天皇に至るまで聖明のおよばないところはなく、百王の鎮護は明かであり、四方の異民族をおさめ鎮めること少しの乱れもないため、皇土をもって永く神国と号している。智をもって競うべきではなく、力をもって争うべきでもない。
(訳・佐伯弘次「蒙古襲来以後の日本の対高麗関係」より)
「乞也思量」(よくよく考えられよ)と最後はしめくくっています。
フビライの威嚇を非難し、要求を拒否しています。
この返書のどこに朝廷の「おろおろ」している態度があらわれているというのでしょうか。
むしろ「無礼な国書」に毅然とした態度をとって拒否しようとしたのは朝廷です。
この返書を幕府(北条時宗)は返してはだめだ、と言ったのですよ。
「想像だが、彼は国を預かる執権として屈辱的な外交はできないという誇りを持っていたのであろう。」(P99)
と説明されていますが、「屈辱的な外交はできないという誇り」を持っていたのは朝廷であって、これが返されたらこちらの準備ができていないのに戦争が始まってしまう、と恐れたのは幕府のほうです。
「時宗英雄説」は、戦前の「神国思想」に基づいた「元寇」の説明に対する戦後の反動として生まれた考え方です。
「屈辱的な外交はできないという誇りを持っていた」のを、朝廷から幕府に巧みにすりかえている説明なのです。