『日本国紀』読書ノート(28) | こはにわ歴史堂のブログ

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28】平氏政権についての微妙な誤解

 

『相棒』の右京さん風に。

 

ど~もひっかかるんですよね~ なんというか… どうしても、わからないことがあるんですよ。

なぜ、崇徳上皇は白河法皇の子どもある、ということは「おそらく事実である」(P82)っておっしゃるのに、平清盛が白河法皇と祇園女御の間に生まれた子である、というのは、いともたやすく「事実ではない」(P87)と否定されているのか。

? おかしいと思いませんか。どちらも根拠の無いスキャンダルですよ。

なぜ、一方は「事実に違いない」とおっしゃって、一方は「事実でない」のか。

それからココ。

 

「高倉天皇は六歳で皇位に就き、徳子と結婚したのは十歳(徳子は十七歳)、完全な政略結婚である。」(P88)

 

ね、おかしいと思いませんか? 

この時代、貴族の結婚なんてみんな政略結婚じゃないですか。藤原氏が自分の娘を結婚させる、て、あれは、すべて政略結婚ですよ。

どうして平清盛の場合だけ、政略結婚だ、なんてわざわざおっしゃるのか。

 

あと、ココ。

 

「武力を背景にのしあがり、ついに最高位の太政大臣につく」(P87)

 

? おわかりになりませんか?

「武力」、「のしあがる」っていうところですよ。

どこか平清盛に対する「悪意」を感じませんか?

 

当時の貴族たちが清盛に悪意を抱いていたのはわかるんですよ。

平家の台頭で、自分たちの地位が脅かされていく…

九条兼実なんか日記の『玉葉』で、平清盛のお姉さんが亡くなったときの記述でこう書いています。

 

「姓の違うものが、藤原氏に入って藤原氏の財産を相続などしたから、春日大社の祟りがあったのだ。」

 

平清盛のことを当時の貴族が悪く思っていろんな記述を残しているのはわかります。

そりゃそうですよね。なにせ「平氏にあらざれば人にあらず」、なんておっしゃっているんですから。

そりゃ、嫌われます。

当時の貴族が平氏のことを嫌うのはわかるんですが、現代の百田さんがどうして平清盛のことをよく思っていないのか…

そう思って読むと、いくつか気になるところが出てくるんですよ。

 

「…高倉天皇を退位させ…」

「…安徳天皇に譲位させた。」

「…手法はそれまでの貴族政権を踏襲したものにすぎなかった。」

「平氏は貴族の真似事をしたかっただけのようにも見える。」

 

? 天皇に対して強制したかのような表現。

そして「すぎなかった」「~だけのようにも見える」、みたいな表現。

厳しいですよね~

 

そこで一つ気づいたことがあるんです。

百田さん、案外と、昔の教科書で習った「平清盛像」のイメージから抜け出せていないんじゃないかな、て。

 

もちろん、今では、平清盛の評価はガラっと変わっています。研究も進んでいて、もちろん、教科書にもそれが反映されています。

 そうなんでよ。百田さんは、それをご存知無いんじゃないかな、て。

 

実は、平氏政権は、その前半と後半で性格が変わっています。

清盛は、後白河上皇の信任を得るため、法住寺御所の近くに蓮華王院を造営し、その本堂(三十三間堂)には千一体の千手観音像を安置し、宝蔵には古今東西の宝物を納めているんです。こうした上皇への奉仕があったから清盛は異例の昇進をとげて太政大臣となっているんです。

 

? 清盛は、院の近臣として法皇に奉仕し、後白河院政を支えて、むしろ法皇と協調して政治をしているんです。単に武力でのしあがったわけではありません。

このあたりくらいまでは、表面的には二人の関係は良好でした。

 

表面的に、というのは教科書などには出ていないのですが、清盛はあくまでも天皇、つまり二条天皇や、美福門院、藤原摂関家などの関係を重視していたようなんです。

ただ、天皇派の有力者が次々に亡くなっていくんですよ。

美福門院も藤原忠通も亡くなり、残ったのは二条天皇の幼い子ども、六条天皇だけ。

結果として後白河上皇が天皇家の長として力を握る…

思うんですが、平清盛は、天皇中心の政治のほうが好きな、わりと伝統を重んじる人だったんではないでしょうか。

 

あ、かつては、平氏政権の誕生を、清盛が武士で初めて太政大臣となった1167年、と説明していましたが、今は違うんです。太政大臣の位は、名誉職みたいなもので、彼はわずか3カ月で辞めています。むしろ、武士で三位以上の正二位の位、内大臣になったのが初めて、というべきで、実際、教科書でもそれを強調しているものも出てきています。

 

さて、二人の関係が変わったのは、清盛の妻の姉妹で後白河法皇の后となっていた建春門院が亡くなってから。

後白河法皇の専制が目立ち、比叡山延暦寺を攻めよ、という命令までも出そうとしていた。

鹿ケ谷の陰謀をきっかけに、院の近臣を後白河法皇から排除し、その上で、軍事力を背景に後白河法皇を幽閉する。

ここからが、平清盛の武断的な、新しい体制が始まりました。

 

平氏は、ちゃんと力をつけていた地方の武士団を味方につけていますよ。

かれらの一部を荘園・公領の地頭に任命し、畿内・西国の武士たちを家人とし、平氏の一門は追捕使などにも任じられ、受領にもなって東国にも勢力を拡大しています。

 

「貴族の真似事をしたかっただけ」(P89)

 

なんて言うのは大きな間違い。

 

あ、もう一つよろしいですか?

一つだけ。ほら、ココ。

 

「翌年、清盛は十八歳の高倉天皇を退位させ、自分の孫の安徳天皇(当時一歳)に譲位させた。幼い天皇が安徳天皇が政治を行えるはずもなく、表向きは高倉上皇の院政ということだったが、すべての権力は清盛が握っていた。清盛は大輪田泊(現在の候神戸港)を修築し、宋と貿易を行ない、富を築いた。この時、宋の銅銭が大量に流入した。」(P88)

 

日宋貿易ですが、平清盛が大輪田泊を修築して始めたのではありません。父の忠盛のときからすでに始まっていました。

なんと平治の乱の前。大宰大弐だった平清盛が1158年に博多を築いて日宋貿易を本格的に始めたんです。

ちなみに大輪田泊を修築したのは1173年。後白河法皇を幽閉する前。ですから高倉天皇を退位させて安徳天皇を位につけるよりも前からなんです。

この書き方だと、日宋貿易が始まったのは1180年代からみたいに誤解されてしまうので念のため。