『日本国紀』読書ノート(29) | こはにわ歴史堂のブログ

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29】北条政子の名前は政子じゃない。

 

こまかいことが気になる、ぼくの悪いクセ。

 

「頼朝の死後、跡を継ぎ二代将軍となった息子の頼家は暗殺され、弟の実朝が三代将軍となるが…」(P94)

 

頼家が暗殺されてから実朝が将軍になったわけではありません。

実朝が将軍になったのは1203年で、頼家が暗殺されたのは1204年です。

伊豆に幽閉された後、暗殺されました。

経緯はなかなか微妙なのですが、若くして将軍となった頼家(17)は、専制的なふるまいから実権を奪われ、有力御家人の合議制になります。

その後、病気となったときに、まだ死んでいないのに、死去したと都に報告され、弟の実朝に将軍が任命された、という話もあります。

頼家を支持していた御家人は退けられ、頼家は将軍職を奪われて伊豆へ。

その後、暗殺されています。

ただ、『愚管抄』では少し違う記事が出ていて、大江広元の屋敷で病気になり、子に位を譲ろうとして出家した、というような話もあり、詳細は不明です。

 

「頼朝の妻となった政子は北条氏の出である。当時は、女性は結婚しても出身家の姓を名乗っていて、そのため彼女は北条政子と呼ばれる。」(P94)

 

誤解があってはいけないので申し添えておきますと、北条政子の名前は実は不明なのです。

「政子」の名前は、朝廷から位(従三位)をもらった時からで、父が時政であったため、「政子」という名前になりました。

1199年に夫の頼朝が死んでいますから、頼朝は自分の妻が「政子」と呼ばれるようになったことを知りません。

時代劇や小説の中で、頼朝が「政子」と呼びかけているときがありますが、あれはフィクションです。

ちなみに、豊臣秀吉の妻、おねは、豊臣秀子、という姓名をもらっています。

 

さて、承久の変での政子の「演説」はたいへん有名です。

「みなのもの、よく聞きなさい。」から始まる演説は、小学校の教科書にも取り上げられ、「頼朝公の恩は山より高く海より深い…」と御家人の結束を促したものとして紹介されていました。

 

ところが、最近の教科書からはこの「演説」、消えるようになったんです。

どうも、この演説、やっていないみたいなんですよ。

『吾妻鏡』では安達景盛が御家人たちの前で代読しています。演説をやったように書いているのが鎌倉中期に書かれた『承久記』です。そんなことから、あいまいな話は避けようということで教科書には載せられなくなりつつあります。

 

「これは史上に名高い演説であり、政子の名を『尼将軍』として後世にまで残すエピソードとなった。」(P94)

 

とありますが、これも誤解の無いように説明しますと、承久の乱で政子が「尼将軍」としてその名を後世に伝えることになったわけではありません。

実朝の死後、皇族将軍を後鳥羽上皇に求めましたが拒否され、摂関家から1219年、藤原頼経(当時2)を将軍として迎え、その後見人として政子が将軍代行をしたので「尼将軍」と呼ばれるようになりました。

『吾妻鏡』によると、御家人たちは、政子をこのときから「鎌倉殿」として認識していたことがわかります。

 

藤原頼経は、頼朝の妹の孫にあたるので、源氏の血が流れていないわけではありませんでした。

26歳まで将軍でしたが、反北条勢力に利用されようとしたため、子の頼嗣に位を譲らされ、翌年出家、1246年に京都に送還されています。

頼嗣は14歳で都に送還され、その後、後嵯峨天皇の皇子、宗尊親王が将軍として迎えられました。11歳から26歳まで将軍の位にありましたが、解任されて子の惟康親王が3歳で将軍になります。26歳のときに長期在任を嫌われ、京都に返されてしまいます。

次は後深草天皇の皇子久明親王が13歳で将軍になります。久明親王は32歳まで将軍をつとめましたが、またまた京都に送還、8歳の子、守邦親王が将軍となります。こちらは33歳まで生きますが、死去の三カ月前に幕府が滅亡しています。

 

「将軍には幼少の者を据え、成人すると将軍職を解いて京都へ送り返した。」(P95)

 

とありますが、頼嗣以外は、成人後も将軍を続けていますから、あまり正確に事実をふまえてはいません。

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