『日本国紀』読書ノート(27) | こはにわ歴史堂のブログ

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27】平治の乱は、男と女のドラマ、人間の情愛、欲望と怒りで説明できない。

 

「信西は後白河上皇と男色関係にあったという噂もあるが、これは単なる中傷ともいわれている。」(P86)

 

こんな「噂」はそもそもありません。

後白河上皇が雅仁親王と呼ばれたころの乳母の紀伊局(藤原朝子)の夫が藤原通憲で、出家して信西と名乗ります。

後白河上皇にとっては父のような存在であり、大きな信頼をよせていました。後白河上皇は、もともとは子の守仁親王が天皇となるまでの中継ぎとして天皇となっていたため、政治に疎く、信西をたよるところが大きかったのです。

 

後白河上皇との「男色関係」を噂されていたのは、藤原信頼です。

おそらく信頼と信西を取り違えての記述で、誤りです。

これとて『平治物語』にみられる話ですが、13世紀につくられた物語の一コマにすぎません。

 

保元の乱にせよ、平治の乱にせよ、鎌倉時代への過渡期の重要な契機となった事件です。その説明を、二次史料や当時の噂話、「男と女のドラマ」「人間の情愛」「欲望と怒り」で構成されてしまっては、市井の三文芝居と同じで、時代の転換や社会の変化が何も伝わりません。

 

「これをよく思わなかった藤原信頼が…」(P86)

(源義朝は)信西と姻戚関係を結んだ平清盛が自分より重用されたことを恨みに思っていたのだ。」(同上)

 

これでは、信西の異例の出世をねたんだ信頼が、自分より出世した清盛を恨んだ義朝とともに、信西と清盛を排除するためにクーデターを起こしたのが「平治の乱」ということになってしまいかねません。

 

ドラマや小説では「お涙頂戴」の有名な場面があります。

 

「清盛の継母が愛らしい頼朝を見て、亡くした息子を思い出し、清盛に除名嘆願する。」(P87)

 

もし、清盛が頼朝をこの時、殺していたならば… と、ドラマの視聴者や小説の読者は歴史の皮肉を感じるところなのでしょうが…

これは、『平治物語』にしか見られない記述で、実際は、後白河の姉や、頼朝の母の親戚である待賢門院の近臣らが助命の働きかけをしています。(『河内源氏』元木泰雄・中公新書より)

実は、頼朝は若年ながらすでに後白河の姉の蔵人をつとめていて、そもそも後白河上皇方に与していたとも解釈できるのです。罪一等は減じられて当然でした。

 

 「清盛の異母弟である義経(当時一歳)も殺そうとするが、その母を自分の妾にすることで、義経の命を助け、鞍馬寺に預けた。」(P86)

 

こちらのほうは完全に後世のフィクションです。

実は源義経は、22歳から死去までの9年間のことしか記録には残っておらず、ドラマや小説で取り上げられている義経像は、すべて『平治物語』『源平盛衰記』『義経記』のいずれか、あるいはその複合で作られたものです。『義経記』は南北朝時代から室町時代に書かれたもの。ほぼ歴史小説といってよいでしょう。

貴族の側の記録では、『玉葉』の中で118310月に「頼朝の弟九郎が大将軍となって数万の兵を率いて上洛を計画している。」と記されているのが初めてです。

 

「清盛が継母の言葉に耳を貸さず、また義経の母の情にほだされなければ、歴史が変わっていた可能性は大である。」(P87)

 

と、ありますが、そもそも無い話で歴史は動くことはありません。

 

現在では平治の乱は以下のようにとらえて説明されています。

保元の乱後、政治の実権を握ったのは、白河天皇の下で腕をふるった藤原通憲(信西)でした。平清盛の軍事力を使って、荘園の整理を断行し、摂関家や大寺院の勢力をおさえる政治を進めました。

これを「保元新制」といいます。

 

これに対して、藤原摂関家は、鳥羽上皇の寵姫で鳥羽上皇の荘園の多くを相続して大きな力を持ち、後白河天皇の子の守仁親王を養子にしていた美福門院と結んで、信西に対抗しようとしました。

美福門院と信西が話し合い、後白河天皇が守仁親王に天皇の位を譲る、ということが決まりました。

こうして後白河上皇・二条天皇体制ができあがります。

 

後白河上皇は、信西が二条天皇派と接近することを不安に思い、新しい近臣を求めるようになります。これが藤原信頼でした。

後白河上皇は信頼をどんどん出世させましたから「異例の出世」は信頼のほうです。

こうして藤原信頼と信西は対立するようになりました。

 

朝廷の派閥は、後白河派と二条派の二派ができたのですが、後白河派は、実は信西派と信頼派に分かれていたのです。

そこで信西派の軍事力の平清盛が熊野詣に出かけた間に、信頼は都に残っていた軍事力の源義朝を巻き込んでクーデターを起こしました。二条派も、「保元新制」で専制的にふるまっていた信西の排除には賛成していましたから協力します。二条派は宮中の警備をする検非違使をおさえていましたから宮廷の掌握は容易でした。

「共通の敵」ができると団結ができる法則ですね。

しかし、「共通の敵」信西が処刑されると、分裂が始まります。

 

一方、平清盛は都でのクーデターをおそれ、一時九州に逃れることも考えましたが、伊勢からの平氏の援軍が到着し、その兵力を背景に都に戻り、六波羅邸に入りました。

実は信頼の息子は、清盛の娘と結婚していたので、藤原信頼は平清盛を味方に引き入れられると思っていたのです。

ところが、藤原信頼による後白河院政を嫌う二条派は、平清盛に接近します。清盛も源氏と接近している藤原信頼ではなく、二条派と結ぶことにしました。

こうして清盛の六波羅邸に二条派が天皇をうつし、後白河上皇も仁和寺に脱出します。

貴族も役人も六波羅邸にほとんどうつり、宮廷そのものが引っ越したようになります。

これで実質上、藤原信頼の敗北が決定しました。

このままだと「無血の再クーデター」だったのですが、藤原信頼と源義朝が最後の抵抗をみせます。天皇を取り戻そうと六波羅に攻撃をしかけました。

これが平治の乱の実態です。

 

「藤原信頼と源義朝の謀反を知った平清盛は、後白河法皇と二条天皇を救い出すと兵を挙げて信頼と義朝を攻め、二人を死に追いやった。これが『平治の乱』である。」(P86)

 

と説明されていますが、これは「平治の乱」の実相とはずいぶん違う説明であることがおわかりかと思います。