『日本国紀』読書ノート(26) | こはにわ歴史堂のブログ

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26】保元の乱は「不倫」で始まったわけではない。

 

「白河上皇による不倫の末に生まれた天皇であった。」(P85)

「…保元の乱こそ、日本史の大きなターニングポイントの一つといえるのだが、そのもととなったのが不倫だったというのが面白い。」(同上)

 

ちなみに崇徳上皇が「怨霊」となる話も紹介されています。

そもそも、『保元物語』は成立年がはっきりとはわからないもので、13世紀前半あたりに書かれたものではないかと言われています。事件の50年以上後に書かれたもの。

とくに為朝の活躍や崇徳上皇の怨霊の話は、『太平記』など後の軍記物や江戸時代の物語で「補強」されて後世に伝わったものです。

菅原道真の怨霊話と同じく、崇徳上皇の怨霊は、死後13年以上たってから出てきた話。あたかも当時に崇徳上皇が異形の姿になり果て、皇室を呪いながら死んでいったような話が実話のように述べられているのは困惑するかぎりです。

ちょうどそのころ、都では不吉な事件も起こり、また平清盛の台頭など、古い貴族社会をゆるがすような出来事も続いていて、これが崇徳上皇の祟り、とされたのです。

崇徳帝の名誉のためにも申し上げますが、讃岐で流罪後の生活は穏やかなもので、哀しみにくれていたことがわかる和歌は残っていますが、天皇や貴族に対する恨みのようなものは当時の史料に一切残っていません。

 

「不倫」の話にいたっては、鎌倉時代にまとめられた『古箏談』によるもの。

これは昔の貴族の噂、スキャンダルをまとめた話で、それぞれ「当時の実際の話」ではありません。

ちなみに「道鏡座れば膝三つ」のもとになった話や「清少納言が陰部を見せて殺されることから免れた」みたいな話が掲載されているものです。

 

「様々な状況証拠から、おそらく事実である。」(P82)

 

と言われていますが、まさか『古事談』に書かれた人間関係を「状況証拠」だとされているとしたら、少し軽率ではなかったかと思います。

コラムでこんなうわさ話がありました、と紹介して笑い話にしたほうがよかったのではないでしょうか。

 

むしろ当時の「状況」を証拠とするなら違う話が浮かび上がります。

 

上皇についてのお話を前にさせてもらいました。白河天皇が堀河天皇に譲位したのは「自分の子」に天皇の位を確実に譲ることでした。

上皇が、天皇家の一家の長として家政および後継をきめる…

「皇太子」がみられなくなるのも院政が開始されてからの特徴です。

 

鳥羽天皇の中宮璋子(待賢門院)は、父は藤原公実でしたが、白河法皇と寵姫祇園女御に可愛がられて育った人物でした。鳥羽天皇との間に男子は5人も生まれています。

この第一皇子が顕仁親王、後の崇徳天皇です。

白河法皇は、5歳になった顕仁親王を天皇(崇徳天皇)とし、鳥羽天皇は上皇となります。

その後、白河法皇が崩御すると、天皇一家の長は鳥羽上皇となりました。

当時の摂関家の長は藤原忠実でしたが、前回お話ししたように、政治の場から長く離れていて、白河法皇には頭が上がりませんでした。

しかし、白河法皇の崩御を機に復活、娘の泰子を鳥羽上皇の皇后に立てることに成功し、藤原摂関家の政界への返り咲きに成功します。

また鳥羽上皇は、さらに寵姫を得ました。これが得子(美福門院)です。

こうなると、崇徳天皇と母待賢門院は、白河法皇の後ろ盾もなく、藤原氏の支援もない状態で、完全に孤立してしまうことになります。

この段階で、得子と鳥羽上皇の間に皇子が生まれました。これが(なり)(ひと)親王です。

待賢門院の子、崇徳天皇。

美福門院の子、体仁親王。

妻の実家の後ろ盾、というのがたいへん重要な意味を持つ時代です。

鳥羽上皇にしてみれば、美福門院の子を次の天皇と考えるのは当時としては不思議なことではありません。

崇徳天皇に譲位させ、体仁親王を天皇とします(近衛天皇)

 

崇徳上皇が孤立し、藤原氏の支援も受けられなくなった理由はまだありました。

藤原忠実の子で関白の藤原忠通の娘聖子を妻としていたのですが、二人の間には子が生まれず、別の女性(兵衛佐局)との間に重仁親王が生まれました。

『今鏡』によると、忠通も聖子も不愉快な思いをしたことが記されています。まぁそりゃそうですよね。

このことが、後に保元の乱で、忠通が崇徳上皇を退ける側に回った理由とも考えられています。

 

さてさて、従来の説では、崇徳上皇と鳥羽上皇の確執が大きく取り上げられていますが、それは『保元物語』や『古事談』を通した「色眼鏡」でこの時代を眺めているからです。

その先入観をとりはらって事実の経緯をあげていくと、むしろ鳥羽上皇は、天皇家の長として、冷静なふるまいをされています。

 

まず、鳥羽上皇は得子(美福門院)との間に生まれた体仁親王を、崇徳天皇の中宮聖子の養子にしています。

それだけではありません。崇徳上皇の皇子重仁親王を美福門院の養子にむかえています。

近衛天皇に後継がいないままで鳥羽上皇が亡くなれば、天皇一家の長は崇徳上皇となり、崇徳上皇の子、重仁親王が天皇となる可能性もあります。

鳥羽上皇と崇徳上皇の関係は、近衛天皇が生きている間、むしろ良好であったとみるべきです。

(『中世前期の政治構造と王家』佐伯智広2015東京大学出版会)

 

鳥羽上皇と崇徳上皇の間の「確執」は従来説明されていたようなものではなく、ましてや保元の乱は、「不倫」が原因で起こったのではありません。