『日本国紀』読書ノート(25) | こはにわ歴史堂のブログ

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25】院政は、上皇が天皇と同等の権力を有することを利用して始まったのではない。

 

「律令制度では譲位した天皇は上皇(太上天皇の略)になり、天皇と同等の権力を有するものとされたが、白河上皇はそれを利用し、政治の実権を握った。これを『院政』という。」(P81)

 

これでは、「院政」をまったく説明できていません。

 

まず、「天皇と同等の権力を有するものとされた」とありますが、実のところ律令制度の中でも、「上皇」をどう位置付けるかははっきりとしていませんでした。

聖武天皇は、自分の娘を皇太子として「太上天皇」となっていますし、その娘、すなわち孝謙天皇も淳仁天皇に譲位して「上皇」となっています。

実はこのときに、①天皇の系統を維持する(自分の子や孫に位を確実に譲る)ために上皇となる、そして②上皇が天皇よりも上である(国家の大事は上皇が担うと孝謙上皇は宣言しています)、というような先例ができてしまいました。

しかしこの先例は、平安時代初期に「訂正」されます。

平城太上天皇と嵯峨天皇が対立して、薬子の変(現在では平城太上天皇の変)が起こってしまいました。

嵯峨天皇が実権を掌握して天皇権力が安定するのですが、自分が淳仁天皇に譲位したとき、同じような権力闘争が起こることを避け、「上皇」の位を得て実権を得ること頑なに拒否します。

ここから上皇は天皇がその称号を贈る地位となり、「天皇が上皇よりも上」、ということが慣例となります。

 

したがって、白河上皇が、「天皇と同等の権力を有する」ことを利用して政治の実権を握った、というのは誤りです。

白河上皇の「院政」は、①の「天皇の系統を維持する」目的で始まり、政治の実権を藤原氏から奪い、摂関政治に対抗しようとする意図で始められたのではないのです。

 

白河天皇が、まだ後三条天皇の皇太子(貞仁親王)であったときのことです。

父の後三条天皇は、貞仁親王の異母弟、実仁親王さらにその弟輔仁親王に天皇の位を継がせたいと考えるようになりました。

貞仁親王の実母茂子はすでに死去しており、源基子が後三条天皇の子、実仁親王と輔仁親王を生んでいたのです。

後三条天皇は、貞仁親王(白河天皇)に位を譲りますが、その条件として次の天皇は実仁親王、さらにその後は輔仁親王である、と決定し、後三条上皇による院政が始まる、はずでした。

 

ところが、わずか一年で後三条天皇は崩御し、実仁親王は15歳で死去してしまいます。

 

ここにおいて白河天皇は、父の遺言(輔仁親王を次の天皇とする)を無視し、自分の息子善仁親王に位を譲って上皇となったのです。

これが「院政」開始のそもそもの始まりです。

 

白河上皇は藤原氏との関係は良好でした。堀河天皇の母は上皇が寵愛していた賢子で、その父が関白藤原師実。

むしろ摂関政治は復活していたのです。

つまり上皇となることは、あくまでも「自分の子を天皇とするため」、というのが最優先課題でした。

政治の実権を握ることになったのは、さらにその後のことで、しかも意図的なものではありませんでした。

 

そして次の関白は藤原師実の子師通。

堀河天皇との関係もよく、かなり有能な関白でした。

ところが師通はわずか38歳の若さで死んでしまい、その子忠実はまだ20代。

大納言という地位にはありましたが就任間もなくまだまだ政治の見習いレベル。

堀河天皇は、父白河上皇に政治をたよらざるをえなくなってしまいます。

ところがその堀河天皇もわずか29歳で崩御してしまうのです。

 

摂関家も天皇家も、後継者が未熟な状態となり、朝廷に「政治の空白」の危機がおとずれました。

こうして摂関家も助け、幼い孫の鳥羽天皇も助ける、ということで白河上皇に権力が集中することになります。

院政開始は白河天皇が上皇となった1086年、と、よく言いますが、事実上の「いわゆる院政」は1107年の堀河天皇崩御からなのです。

 

自分の子を天皇とするため上皇となる。

息子が摂関政治を始める。

ところが関白が若くして死んでしまう。

さらに天皇も崩御してまだ幼い孫が天皇となる…

藤原氏の混乱と天皇家の危機。

これを乗り切る政治が白河上皇の「院政」の背景でした。