『日本国紀』読書ノート(24) | こはにわ歴史堂のブログ

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24】武士集団は、現代で言うヤクザではない。

 

私も授業でよく言うことがあるんですが、

 

「現代で言ったら〇〇みたいなもんや。」

 

という「比喩」です。

これ、実はよほど慎重に使わないと、生徒たちに「わかりやすさ」とひきかえに、誤ったイメージを植え付けかねません。

「わかりやすさ」と引き換えにしてはいけないのはやはり「事実」です。

複雑でも、わかりにくくても、「実態」を正確に説明しなくてはならないのが、この時代では「武士」の説明だと思います。

 

「初期の武士集団というのは現代でいうならヤクザのような存在であった。」(P72)

 

と説明されていますが、このような話はインターネット上の解説などでしか私はみたことがありません。すくなくとも平安時代後期・中世史の専門家でこのような理解をされている人はいないのではないでしょうか。

 

武士を、ひとくくりに「武士」、と称してよいのは鎌倉政権が誕生して以降ではないかと思っています。

 

「武士」は一本の川が、上流-中流-下流と変化していくような、一つの発展段階で10世紀、11世紀、12世紀と変化したわけではなく、むしろ複数の河川の流れの、段階的合流、と理解したほうがよいと考えられますし、現在の教科書もそのように説明するようになりました。

 

その複数の流れですが、まずは一本目。

地方の各地に生まれた豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装した者。彼らは「(つわもの)ばれているグループです。

家の子とよばれる一族や郎党とよばれる従者を率いていました。

 

二本目の流れ。

武力で朝廷に仕えていた者たち。畿内・近国にいて朝廷の「武官」となっていた者で「武者(もののふ)ばれているグループです。

もともと貴族である場合も多く、「文」ではなく「武」で仕える者。阿倍比羅夫や坂上田村麻呂、小野好古など武官としての官位を授かっています。

 

三本目の流れ。

貴族に仕えて、公家の家政や護衛を担う者たち。

(さぶらい)ばれているグループです。

 

二本目と三本目は複雑に交わっています。畿内で藤原氏に仕えて勢力を拡大した河内源氏、院の警固で北面の武士として活躍した伊勢平氏、などをみればわかると思います。

 

四本目は、一本目とも複雑に交わり、三本目に流れ込むパターンですが、都の有力貴族が地方に行き、地元の勢力にその名望から受け入れられて担がれたような者で、桓武天皇の曾孫高望王が、平姓を与えられて関東に勢力を張ったような例です。

 

五本目も一本目と複雑に交わるものですが、もともと朝廷とは関係が無く、独自の勢力であったものが戦いなどを通じて帰属していった例で、奥州の安部氏や清原氏などがその例といえます。

 

これらが10世紀、11世紀、12世紀と段階的に分岐・合流・展開して鎌倉時代にようやく「ひとくくりの武士」になります。

 

さて、これらをふまえて百田氏の記述を読むと、武士と朝廷に関する説明は誤解の上に成り立っていることがわかります。

まず、P72にみられる記述は「武士」を一本の流れで説明して単純化してしまい、10世紀の初期武士集団の多様性を説明しきれず、さらに「ヤクザのような存在」とステレオタイプ化してしまいました。

 

そしてその前提に立って、

 

「朝廷は治安を維持する警察機構のようなものを持たず、戦は武士たちに任せきりだったのがわかる。雅を愛する平安貴族たちは『戦』のような野蛮なものを『穢れ』として忌み嫌うようになっていたからだ。」(P79~80)

 

と説明してしまっています。

 

おそらく、学生時代に習った平将門の乱や藤原純友の乱の説明のうち、「この乱により、武士にたよらなければ、もはや武士の力を抑えられなくなったことが明らかになった」という記述が印象に残っておられるのでこのように説明してしまったのかもしれません。

実はこれは、「朝廷の軍事力」の低下を示した事件である、というだけで、これによって朝廷は、逆に従来の軍制を再編強化し、朝廷の軍事力の回復を図るのです。以下、教科書や『詳説日本史研究』(山川出版)などに基づいて説明しますと。

 

朝廷・貴族は武士を積極的に「侍」「武者」として奉仕させるようにし、また地方の「兵」も館侍・国侍として国司のもとに組織化し、諸国の「追捕使(ついぶし)や「押領使(おうりょうし)任命しました。(「追捕使」は盗賊や反乱をとらえる役割をし、押領使は内乱などに兵士を統率する役割をします。)

こうして国司に仕える武士たちは、地方の行事にも参加するようになり、神事の相撲に武士が奉仕する、ということになりました。相撲は武士の体制内化を示す例といえます。

すでに「刀伊の入寇」はお話ししましたが、刀伊の侵入に際して、都に来襲の知らせが届く前に迅速に対応できたのは、九州の武士団が国司のもとでよく統率・組織されていたからこそで、だから藤原隆家はそのリーダーシップが発揮できたのです。

平安後期は、「兵」「武者」「侍」は、平将門の乱や藤原純友の乱を通じて、しだいに朝廷や国司の下にまとめられ、シビリアン・コントロールならぬ貴族コントロールに入った時代でした。

 

もう一つ、武士たちが生まれたことを忘れてはならない側面があります。

もともと律令政治の下、農民は衛士や防人、地方の軍団での一定期間の軍役につかされていました。民間人もすでに武器の扱いを知っていたのです。

桓武天皇の時代には健児の制で、郡司の子弟や弓馬に秀でた農民による兵士が組織されています。10世紀以降の荘園発達や有力農民の開墾の中で、農民たちは武装することに、違和感がなかったともいえます。

 

以上の話をふまえて、もう一度以下の説明を読んでみてください。

 

「飛鳥時代の政府(朝廷)は、防人制度を作ったり大宰府に水城を築いたりして、常に外国からの侵略に備えていたが、三百年も平和が続くと、朝廷も完全な平和ボケに陥り、国を守ろうという考えが希薄になっていた。同時に現実的な判断力をも失っていた。『刀伊の入寇』の際、ひたすら祈祷に頼るしかなかったというのが、まさにその象徴的な行動である。」(P81)

 

この時代の武士と朝廷の関係を、いかに深く誤解されているかがわかると思います。