『日本国紀』読書ノート(23) | こはにわ歴史堂のブログ

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23】藤原氏による摂関政治の始まりの時期ははっきりとわかっている。

 

いつの頃からか摂政や関白は藤原氏一族以外からは出なくなっていたため、藤原氏は『摂関家』と呼ばれるようになった。」(P78)

 

と説明されていますが、摂関政治の始まり、摂関の独占は「いつの頃からか」わからない曖昧なものではありません。

藤原氏による摂関政治は、古代史の中ではたいへん重要な位置づけで、どの教科書でも権力掌握過程は、他氏排斥の事件をふまえて詳細に説明します。

 

摂政は「(ふさ)(つかさど)る」という言葉からできたもので、政治を(ことごと)く委ねる、という意味です。

聖徳太子が「最初の摂政」と説明されていたときもありますが、聖徳太子は皇太子として、推古天皇から政治を委ねられていて、このとき役職としての摂政はありません。

 

皇太子が天皇に代わって政治をすることを「称制」といいます。中大兄皇子も斉明天皇崩御の後、この方法で政治をおこなっています。

 

藤原良房が、皇族以外で政治を委ねられた最初とされるのは『日本三代実録』に記された「天下の(まつりごと)を摂行せしむ」という貞観八年(866)の記録、または『公卿補任』に見られる天安二年(858)の記録「摂政と為す」によるからです。

 

関白は、良房の子(養子)の基経が最初です。

関白は「(あずか)(もう)す」という言葉からできたもので、元慶八年(884)に「今日より官庁に坐して就きて万政を(とり)(おこな)ひ、()りては朕が()(たす)け、出ては百官を()ぶべし。」と天皇から命じられます。

また、仁和三年(887)の『政事要略』には「摂政太政大臣に万機を関白(かんぱく)せしむる詔を賜ふ」と記されていて、これらをもって藤原基経が関白となった、と説明します。

以後、摂政・関白が空位の時はあっても藤原氏以外が摂政・関白となったことはありません。(豊臣秀吉も形式的には、藤原氏として関白に任じられています。)