【22】刀伊の入寇で朝廷は夷狄調伏の祈祷ばかりしていたのではない。
「刀伊の入寇」なのですが…
「満州に住んでいた刀伊が、対馬・壱岐・北九州を襲い、女性や農作物を奪った事件である。」
「この大事件に、朝廷が取った行動は常軌を逸したものだった。何と武力を用いず、ひたすら夷狄調伏の祈祷をするばかりだったのだ。」(P78)
この説明はかなりの誤解を含んでいることがわかります。
A「大事件」と説明しているのに「女性や農作物を奪った事件」とだけしか説明できていません。これなら、それまでの新羅や高麗の海賊たちが起こした侵入事件と何も変わりません。
B朝廷は「武力」を用いず、ひたすら「夷狄調伏の祈祷」をするばかりで、
Cこの「行動」が「常軌を逸した」ものだった
と説明されていますが、これはまったく誤解です。
Aについてですが。
実は、この話は小学校や中学の校の教科書では取り上げられていません。
だからこんな話、知らない、という方がいてもおかしくはありません。
しかし、刀伊の入寇は、対馬・壱岐・大宰府を襲撃した事件。一次史料もたくさんあり、60年代から研究はかなり進んでいます。
というのも、外敵に対する対応、つまり兵の動員や連絡・通信にかかる日数などが明確に記録されていて、平安時代後期の軍制がよくわかる事件だからです。
寛仁三年3月27日、といいますから西暦1019年、対馬に3000人ほどの刀伊が上陸、対馬・壱岐で略奪・放火・誘拐をおこないました。400人ほどが殺され、拉致された人たちは1000人を超えたようです。(以下詳細は『日本の歴史5王朝の貴族』(土田直鎭)より・被害などについては『長崎県の歴史』(山川出版)に詳しい)
四五十人が一隊で、弓・剣・盾などで武装し、それらが十組くらいで行動し、家畜は殺して食し、老人・子供は殺害、壮年男女は連れ去ったことがわかります(女真の戦い方とほぼ一致)。船は50隻ほど。船の大きさは十尋。「尋」は六尺。1.8mですから20m近い大きさの船で来襲しました。
対馬では40人ほどが殺害され、約350人が拉致されました。
壱岐では、約150人が殺害され、240人ほどが拉致されました。壱岐守藤原理忠は兵を率いて戦いましたが戦死…
『室町幕府と国人一揆「戦争とその集団」福田豊彦』によると、殺害365人、拉致者1289人、家屋45棟が破壊・焼却されました。家畜は380頭が屠殺されています。
壱岐では残された島民は30余名、という「大事件」です。
Bについて。
これはそもそも無理な要求です。
3月27日 対馬来襲
3月28日 対馬から大宰府へ襲撃を受けたことを知らせる急使が出発。
4月7日 襲撃を大宰府に連絡
同日、刀伊北九州上陸・戦闘開始。都へ飛駅使が送られる。
4月13日 戦闘終了
4月17日 都へ飛駅使到着。
4月18日 会議で防衛支持・勲功を約束する議決。
4月25日 事件解決の知らせが届く。
飛駅使が都に着いた4日前にはすでに事件は終結しています。
それから、朝廷が「武力を用いず」とありますが、実は、すでに北九州では防衛体制は作られていたのです。
弘仁・貞観・寛平の年間に、実は朝鮮の海賊が北九州で横行していたので、「防人」の制度も復活していましたし、「弩(いしゆみ)」も配備しています。沿岸防衛に関してはしっかりしていたと考えられます。
そして何より、朝廷は事件を17日まで「知らなかった」のです。まして都に知らせが届く前の13日に「解決」していることなどわかりません。
急を知らせる「飛駅使」も機能していましたし、「大宰府」も本来の防衛施設としての機能を十全に機能しました。
大宰府には「都から送られた」大宰権帥藤原隆家がいて、指揮・防衛をしているのですからそれは「朝廷が武力で対応した」のと同じ。
ことさら朝廷が何もしていないかのように説明するのはおかしいと思います。
「夷狄調伏の祈祷をするばかり」で、とありますが、『小右記』によると、4月21日に伊勢神宮以下十社に奉幣がなされています。でも、陣定の後、翌18日の会議では、大宰府に使いを発し、
①要所の警固
②賊の追討
③手柄を立てたものへの行賞
を命令し、
④山陽道・山陰道・南海道・北陸道の警固
を指示しています。
Cに関して、「常軌を逸した」と説明されていますが。
当時としては、異変に対して「祈祷」は通常のことで、それをもって無能であるかのような例にするのは少し酷です。後の「蒙古襲来」の話にも通じますが、当時としてはむしろ「常識的」で、このような場合に祈祷を命じないほうが異常でした。
4月23日以降、朝廷では様々な議論が行われています。従来の高麗の海賊の延長ではないか、また4月25日以降は、捕虜の中に高麗人がいたことから、海賊ではなく高麗の攻撃ではないか、など議論が行われています。
「刀伊」であることがわかったのは、対馬の判官長嶺諸近が、高麗に渡って情報を収集し(連れ去られた家族を取り戻すため)、帰国して高麗の情報を伝えたからでした。
これが7月7日のことです。ここからさらに8月までは、高麗との関係についての議論が進み、8月には高麗の仕業でない、ということが最終的に確認されています。
朝廷では、後に『小右記』によると、高麗が刀伊を撃退して日本人を送り届けてきたとしても、元は敵国(新羅)であるので、これは何かのたくらみがあってのことかもしれない、という慎重な議論もしています。
さて、9月には、高麗から使者が来ます。
拉致されていた270人を刀伊から奪い返して、日本に届けてくれました。
翌年2月には拉致された日本人を連れてきくれた高麗使に返書を持たせて帰国させ、また金300両の礼金も支払っています(『大鏡』より)。
以後、高麗との友好関係が続き、不安定だった東アジアの中で、宋・高麗との友好関係を築きました。
朝廷は「祈祷をするばかり」ではけっしてなく、その後の外交で、高麗との友好関係を築き。それを契機に民間での交流はいっそうさかんになりました。
軍事ではなく、政治・外交による解決の後日譚があることをわすれてはいけません。
以下は蛇足ですが。
藤原隆家のことです。
「叔父(道長)との折り合いが悪く」「若いころに左遷され」「出世はしなかった」(P78)。
と、記されていまが。
文脈から誤解される方がいてはいけないので、申し添えますと。
藤原隆家は大宰府に「左遷」されたのではありません。
「若いころ」というのは17歳のときです。たしかにこの時、長徳の変で出雲権守に左遷されています。
でも、翌年には都にもどり、兵部卿に任じられ、4年後には権中納言に任じられます。これで復活。
さらに5年後には従二位。さらに翌年には正二位。(正一位は人間はなれませんから、これは上から二番目です。)
ちなみに官職は中納言です。「出世しなかった」というのは誤りです。
眼病の治療のために申し出て、自ら大宰権帥に志願します。左遷ではないので、大宰府では優遇された生活をしています。
藤原道長は、隆家が都を去るのを止めようとしたので、任じられるのが9か月遅れました。賀茂の祭りには道長は同じ牛車に隆家を乗せていて、「若いころ」にはわだかまりがあったかもしれませんが、二人は和解していたともいえます。