『日本国紀』読書ノート(21) | こはにわ歴史堂のブログ

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21】菅原道真の祟りの話は、藤原時平の死後にできた。

 

菅原道真の死は903年。そして菅原道真の「怨霊が原因」で死んだのは計8人。

 

906年・藤原定国

908年・藤原菅根

909年・藤原時平

913年・源光

923年・保明親王

925年・慶頼王

930年・醍醐天皇

936年・藤原保忠

 

菅原道真が死んだ年、比叡山の僧尊意の前に、死んだはずの道真があらわれ、「復讐宣言」をしたところから「怨霊の祟り事件」が始まった(『北野天神縁起絵巻』鎌倉時代)とされています。

 

ところが、このうち、最初の二人は909年の藤原時平の死後、「菅根も定国も道真の祟りだったに違いない」と後から「認定」されたものです。

そして、

 

菅原道真の怨霊が原因で時平が死んだのではないか?

 

と宮中で噂されるようになったのは時平の「死後」なのです。

とくに本格的に菅原道真の祟りと認定されたのは930年の清涼殿落雷事件から。

菅原道真の死後、27年後なんですよ。

さらにその80年後、『扶桑略記』の中で僧浄蔵が藤原時平の死の際に、時平の耳から青龍に化けた菅原道真が出てきたことを「目撃」した話が記されるようになりました。それまで、そんな話はありません。

 

時平の死の前に

 

「道真を追い落とした藤原氏の主だった男たちが次々と急死し、その子供たちも次々と亡くなっていく。道真を左遷に追いやった首謀者の藤原時平はそれを見て、道真の祟りに怯えながら狂い死にする。それでも祟りは収まらず、今度は皇太子までが亡くなる。」(P75~76)

 

とあるのですが、この話は事実関係・前後関係を誤認しています。

これでは、もはや、まったく新しい別の菅原道真怨霊物語。

藤原時平は、いったい誰が、次々と死んでくのを見て、さらにその子どもの誰が次々と死んでくのを見たのでしょうか?

おそらく、『大鏡』に記された時平の息子、藤原保忠の逸話とごっちゃになっているんだと思います。

 

P75で説明されている「怨霊」と日本人の歴史についての話はかなり共感できるものです。

 

「日本の歴史を見る際には、かつての日本人がそうしたものを恐れていたということを忘れてはならない。」

 

というのはまったく同感。

でも、だからこそ、正確にこの菅原道真の話は説明してほしかったところです。

こういうエピソードって、つい他人に話したくなるところじゃないですか。

これが不正確だと、どんどん歴史の誤った話が一人歩きして広がってしまいます。

 

ところで、左遷後の菅原道真なのですが。

大宰府での左遷中、実に清らかな生活をおくって反省し、少なくとも一次史料に藤原氏や天皇をうらむような記述をいっさい残していません。

菅原道真は、左遷が冤罪だったというよりも「道真の祟り」と決めつけられたことが彼にとっての「冤罪」だったと思います。