『日本国紀』読書ノート(20) | こはにわ歴史堂のブログ

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20】藤原を名乗れたのは不比等の子から。

 

藤原氏は、中臣鎌足が「藤原」の姓を天智天皇から賜ったことから始まったとされています。

 

鎌足の子で藤原姓を名乗れたのは不比等(鎌足の次男)だけであるということを見ても…」(P73)

 

とありますが、これは厳密には、不比等の子以外、藤原姓を名乗れなかった、というのが正しい説明です。

 

すいません。まさにこれは「細かいことが気になる、ぼくの悪いクセ」です。

でも、藤原氏の権力獲得過程は、その前提を正確に説明していかなくては、後の藤原氏を中心とする政治を描けないのも確かです。

藤原氏は、最初から力を握っていたわけではありません。後に権力の中心となったゆえに、その過去は過大に(誇張して)説明されている可能性が高い、ということです。

「御落胤」説などもその延長にあるものにすぎません。

たとえば豊臣秀吉も御落胤説を創り出しています。

千年後くらいに、「庶民出身の秀吉が急速に出世して関白になれたのは、実は天皇の子どもだったからだ。」なんて説明されていたら笑ってしまうでしょう?

 

「豊臣秀吉は実は天皇の子供だという説がある。同時代の歴史書にもそれを匂わす記述がある。」

「庶民出身の人間で『豊臣』という新しい姓を授けられたのは秀吉だけだ。」

 

なんてもっともらしく説明することも可能になります。

このあたりは「陰謀論」とよく似た構造です。

 

「不比等は実は天智天皇の子供だという説がある(『興福寺縁起』や『大鏡』など多くの史書にそれを匂わす記述がある)。」(P73)

「鎌足の子で藤原姓を名乗れたのは不比等(鎌足の次男)だけであるということを見ても、信憑性は高いと思う。」(同上)

 

藤原氏は、有力氏族には違いありませんが、最初から突出していたわけではありません。

実は、天武天皇の定めた「八色の姓」の中に、「藤原朝臣」は見当らないのです。

この段階ではまだ「中臣連」であったと考えられています。

というのも、鎌足の後に中臣氏を率いた中臣金が近江朝側に与していたからで、一時中臣氏は停滞して「藤原」を名乗れませんでした。

その後、中臣大嶋や中臣意美麻呂らが中臣一族をまとめてから、「藤原」の姓を名乗れるようになったのです。

この段階では、不比等だけが「藤原」を名乗れたわけではありません。

 

文武天皇の時代になって、信任を得た藤原不比等が、太政官の中で力を得るようになり、自分の子だけが「藤原」を名乗れるようにし、他の一族は「中臣」に戻させて神祇官を担当させました。

言わば不比等は、出世後、力を得て「藤原」の姓を独占できるようになったのです。

 

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