ここまでで思ったことを…
「ずっと気になっていたことがあるんです。」
“相棒”の杉下右京さんじゃないんですが、「どーもひっかかることがあって…」
百田氏は、戦後GHQの7年間の教育(洗脳)によって、日本人のそれまでの「歴史観」が変えられた、という文脈で筆を進められています。
でも、GHQの7年間を言うならば、1930年代以降の10数年間の教育(洗脳)は果たしてどうだったんでしょう。
ミッドウェー以後には「大本営発表」に代表的なように、正しい情報は国民には知らされず、戦地でのルポや兵士たちの生活を著した小説などもかなり制限を受けました。
言論統制はもちろん、国民生活全体が統制を受けていきます。
すでに美濃部達吉の「天皇機関説」が否定され、国体明徴声明が出されました。
学問の自由はかなりの制限を受けます。
具体的には『古事記』『日本書紀』の社会科学的検証は、ほとんど禁止されたも同然となりました。
独立後、1950年代から70年代にかけての、「遊牧騎馬民族説」や、百田氏も「採用」されている、「邪馬台国九州説」「九州王朝説」「3王朝交替説」なども含めて、戦後のさまざまな歴史教育は、GHQの教育「洗脳」の結果などではなく、戦前の思想・言論の統制、『記紀』の社会科学的検証が禁じられていたことによる「反動」と理解すべきではないでしょうか。
そこでふと思ったのですが…
案外と、「戦後教育」を否定されているはずの百田氏ご自身の「歴史観」は、戦後50~70年代の枠組みの上に乗っかっている(あるいはその延長線上、あるいはその誇張)のように思えて仕方が無いのです。
ここまでの第1章から第3章のお話で言うならば、たとえば、国風文化の誕生についても、「遣唐使の廃止」から説明され、日本の独自の文化の素晴らしさを語られています。
「廃止」の理由は「学ぶべきものはなくなった」という自信のあらわれ、と解釈されていますが、それは「遣唐使の廃止が国風文化を生んだ」という戦後歴史教育の説明の上に乗っているものなんです。
後に、蒙古襲来のお話もされていますが…
「元寇」で、朝廷は夷狄調伏の祈禱ばかりでなすすべがなかったが、武士の活躍で撃退した。しかし、恩賞が支払われず、御家人が窮乏する…
徳政令を出すが、かえって経済が混乱し、幕府への不満がつのり、やがて後醍醐天皇による倒幕運動へと発展する…
これ、まさに戦後歴史教育の説明で、現在ではこんな安易な一直線の説明はしません。
戦前は「神風」による、朝廷・寺社の力が過大に評価され説明されましたが、戦後はそれを否定することを強調するために、「朝廷や貴族はなすすべがなかった」と表現するようになっています。
振り子と同じで、戦前戦後で揺り戻しが起こっているんです。
現在は、50~70年代歴史教育の枠組みから「脱却」しつつあります。
イデオロギーにとらわれない、「史料の検証に基づく歴史教育」が進んできました。
もし、現在の歴史教育での説明をもう少しご存知であったのなら、第1章から第3章の各所にみられるような誤解は生まれず、書き方もずいぶん変わったのではないかな、と思っています。